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[ハンギョレ21 2011.05.18. 第861号]似た独裁者、似てない娘たち

登録:2011-06-06 19:30

 ペルーのフジモリ在任期の虐殺・拉致・横領などに謝罪した娘ケイコ

——有力大統領候補、朴槿恵の真摯な謝罪はいつなされるのか


「父を赦免しない」


この「薄情な」娘は、アルベルト・フジモリ(73)元ペルー大統領の娘ケイコ・フジモリ(36)。ペルー上院議員の彼女は、有力な大統領候補だ。フジモリ氏は在任10年(1990~2000)の間、虐殺・拉致・横領などを犯し、25年の刑を言い渡され、服役中だ。ケイコ議員は、4月24日放送のカメラの前で「父の在任時代に起きた過ちを認め、ペルー国民に謝罪する」と語った。「二度とそのようなことが起きないようにする。大統領に当選しても、父を赦免しない」とも加えた。そして、ケイコ議員は、フジモリ政権を「独裁政権」と規定するのには反対した。「経済成長など、肯定的な部分も多い」とのことだ。

父から距離を置き始めたフジモリの娘
 

1990年に大統領に就任したフジモリは、1992年の親衛クーデターで憲法を停止し、国会を解散した。フジモリの鉄拳統治は、1996年の憲法改正で3選の道を開き、着々と独裁へと進んだ。2000年には不正選挙の論議の中でも3選に成功したが、不正選挙の疑いなどが明らかになると、日本に逃げた。在任中には高い経済成長率で支持を受けるなどした。


ケイコ議員は、17歳のときに両親が離婚した後、事実上の「ファーストレディ」役をしてきた。2006年の選挙では、ペルー史上最も多くの票を得て、国会に入った。父の支持者たちを中心に、大統領の夢を育んできた。その謝罪をめぐって父と距離を置き始めたと解釈ができる。大統領選の予選投票で1位と8%の差で2位になったケイコ議員が、土壇場の逆転カードとして父を「捨てた」のである。



▲2008年3月25日、朴槿恵前ハンナラ党代表が、国会議員選挙の候補登録を終えた後、慶北亀尾市上毛洞にある朴正煕元大統領の生家を訪問し、追悼館で考え込んでいる。


「フジモリーケイコ」の父娘関係は、誰かと非常に似ている。「沈鶴圭(シム・ハッキュ)ー沈清(シム・チョン)」[韓国の昔話]以来の韓国で最も有名な父娘「朴正煕(パク・チョンヒ)ー朴槿恵(パク・クネ)」関係と対照表を書いても、特に抜け落ちるがないように見える。22歳で「ファーストレディ」の生活を始めていた朴槿恵。在野の朴槿恵は、1998年に大邱達城補欠選で61%の圧倒的支持で国会に入った。1997年12月にハンナラ党に入党するまで、どんな政治能力も見せたことのない彼女に圧倒的な票が殺到したのには、「父」を懐かしがる固定支持層の力が大きかった。朴槿恵前ハンナラ党代表は、2011年5月現在、最も有力な大統領候補だ。立候補が予想される他の候補者の支持率を挙げるのが、きまり悪いほどだ。なので、ケイコ議員のように土壇場で起死回生しようと父を「裏切る」理由もなさそうだ。


朴正煕という名前は、韓国現代史の暗鬱な屈曲と、そのまま重なる。彼の「娘」が出馬すると見られる2012年の大統領選挙は、したがって、過去事を取り除く「フィルター」になることは明らかである。ハンナラ党内部の予備選挙から、「父」に対する態度を「娘」に要求することになるだろう。「父朴正煕」は、資産であり負債だ。持って行くものと捨てて行くものが混ざっているわけだ。5.16軍事クーデターを「救国の革命」と評価していた朴槿恵前代表。父に対する朴前代表の「歴史認識」は、どう評価すればよいのだろうか。


朴前代表は、政界に入門し、2007年にハンナラ党の大統領選候補予備選挙に出るまで、数多くの過去をめぐる発言をしてきた。過去事清算作業が本格化した参与政府[盧武鉉政権]のときに特に多かった。場合によっては積極的に、時には神経質的に、あるときは親しみを込めることもあったが、大きな枠組みとしては、過去の歴史と父を接続するすべての線を切ろうとしていた。朴元大統領が南朝鮮労働党との「線」を切って生き延びたように、娘は父親に対する否定的な評価を切り取って、自分と父親の両方を復活させようとしていた。


維新独裁の違憲性に目を閉じる朴槿恵


「維新独裁」[朴正煕による独裁。1972-79]は、保守政党も手に余る重荷だった。維新独裁と正修奨学会の問題などについて、ハンナラ党内外で謝罪要求が強まっていた2004年8月、騒動が起きた。朴前代表は、党議員研鑽会で、「宣戦布告」をした。「過去事について謝罪を求める声が多いが、すでに何度も公開した。それでもまた謝れ、謝れと言うのは、純粋な意図のものではなく、代表のあらさがしだ。朴元大統領が、歴史に罪が多い大統領だと考えるのならば、なぜ、過去の選挙のときに助けてくれと言ったのか。みじめで卑怯だと思わないのか」


2005年12月、国家情報院の過去事真実究明委員会が、人民革命党事件・民青学連事件は朴正煕政権によって捏造・誇張されたと発表した。朴前代表は、あるマスコミとのインタビューで、「発表内容は、一言でいえば価値がなく、謀略だ」と語った。「コードの合う人同士が私たちの歴史を歪曲してむやみに発表すること自体が、過去事となるだろう」とも語った。事前に打ち合わせたインタビューだっただろうに、生々しい発言が次々と出てきた。


朴前代表の政治では、ひたすら「憲政秩序」が強調される。彼女は自叙伝『絶望は私を鍛え、希望は私を動かす』(2007)で、「実は父の時代には、北朝鮮の南侵の脅威から国を守り、貧困と飢餓から脱することが何よりも急務であったため、『民主化』という側面から見れば、不足している面もあった。そして、その過程で民主化運動をし、不本意ながら被害を受けた方もおられた。私はその方々にはいつも申し訳なく思ってきた」と書いた。特有の分かりにくい謝罪よりも、「北朝鮮の南侵の脅威」に対抗しなければという憲政秩序の維持に重きがおかれている。しかし、朴前代表は、前提となる維新憲法自体が違憲だったという事実には、あえて目を向けようとしない。


2007年1月、裁判所が代表的な「司法殺人」である人民革命党再建委員会事件[1974年、国家保安法違反の嫌疑で23人が逮捕、8人に死刑判決が下され、その18時間後に死刑執行された事件]の再審で、無罪を宣告した。朴前代表は「前回も法の下でなされたものであり、今回も法に基づいてなされたものだ。ならば法のいずれかが誤っているのではないか」と述べた。「前回の法」は維新憲法である。


そう語っていた朴前代表は、今では過去についての発言を慎む。大法院[最高裁]は昨年12月、暴圧的な維新体制の「前衛」だった緊急措置1号[一切の改憲論議を禁止する等]について、「現行憲法だけでなく、維新憲法の下でも違憲だった」と宣言した。朴前代表からは、特に何も言葉は聞かれなかった。


4年前の2007年7月、ハンナラ党大統領選候補の検証聴聞会。朴前代表は、「5.16は救国の革命であり、維新体制は、歴史の判断に任せなければならない」とした。政界に入り14年。朴前代表は「断末魔の政治」という批判にも、重要な瞬間ごとに効果を極大化する政治的決断を下し、着々と政治的能力を育ててきた。ある親朴系の議員は、「今や父の資産や負債を云々しなくてもよい。朴前代表は、政治的なキャリアを築いてきた。独自に多くの難関をくぐって地位を築いており、父親と結びつけてプラス・マイナスをつけることはたいして意味がない」と述べた。


心からの謝罪と見解を表明する必要が


それでも、とうてい「父の時代」を忘れることができない人々がいる。「私たちが受けたように、連座制を適用しろとは言わない。しかし父が犯した罪について自戒し、心からの謝罪と立場表明がなければならない。政治で大きな仕事をしたいという人が、これではいけない。大権を得るのは、そんなにすんなりいくものではない。生きている犠牲者の家族が何百万人もいることを忘れてはならない」。5.16クーデター直後、無念の獄中生活をした人の「警告」だ。


キム・ナミル記者 namfic@hani.co.kr

原文:http://h21.hani.co.kr/arti/special/special_general/29640.html 訳:兵頭圭児