原文入力:2011/06/02 23:39(3931字)
朴露子(バク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学
何か月か前にソウルで普段から慕っている国内のある知識人の方と話しを交わしたことがあります。会話の主題は原色的な反日感情の克服、そして韓日間の真正な連帯の可能性でしたが、私は一応私たちが力を傾けなければならない部分は、韓日の民衆、韓日の左翼間の連帯だという意見を開陳しました。右翼は場合によっては独島問題などを利用し民族主義的な感情を煽り立てたりするものの、またどうせ必要に応じて韓日議員連盟などを通じて連帯したりするため、私たちみたいな人々は右翼間の韓日連帯まで心配する理由はあまりないというのが私の考えでした。余談ですが、上記の韓日議員連盟の韓国側の幹事長代理をまさに原色的な反日感情を煽ることで有名なハンナラ党の田麗玉(チョン・ヨオク、1959生まれ)議員が務めているのは意味深長なことです。右派にとり盲目的なナショナリズム扇動と必要に応じた隣国の搾取階級との連帯は、コインの両面のように二つの主な義務なのです。
ところが、相手は「左翼」に対する私の肯定一辺倒の発言に反対し、「左翼をあまり理想化する必要はない。1972年の山岳ベース事件や浅間山荘事件を考えてみろ」と私に力強い口調で言ってきました。ご存知でない方もいらっしゃるかもしれないので、少しふれますと、「山岳ベース事件」とは、1971~1972年に山岳地帯で「革命の基地(ベース)」を建設しようとした日本の新左翼の極左的な「連合赤軍」が「総括」(一種の自己批判)の過程で12人の「革命精神の足りない」同志を殺害した事件を意味します。その後、一部の残された「革命戦士」たちが浅間山荘で警察と対峙しながら激しい抵抗を繰り広げましたが、これを「浅間山荘事件」と言います。実際、1960~70年代の日本における新左翼闘争のほぼ末期に起ったこの二つの事件は、あくまでも「ごく一部」にすぎません。新左翼が大衆性をやや欠いていたのは事実であるとはいえ、学園運営の民主化、授業料値上げ反対、支配階級の一員に組み込まれる「資格」のある「名門大」の学生たちの「搾取者としての自分の位置への自覚」、ベトナム戦争反対などのために行ってきた闘争の多くは「暴力のための暴力」というよりはあくまでも「公共利益のための(一部において暴力を含んだ)猛烈な行動」でした。にもかかわらず、特に「穏健な」自由主義者たちの記憶にはその「公共性闘争」の方より、なんとなく末期的で猟奇的な「殺人事件」だけが強固に残っています。国家と資本が牛耳っている教科書、メディアの内容によって形作られていく「集団記憶」は極めて選別的でしかありえないということですね。
私と話しを交わした知識人の方のみならず、幾多の一般人の頭にも「左翼」は必ず「暴力」のイメージを帯びています。石を投げるデモ隊であろうが銃を持つ赤軍兵士であろうが、一般的に描かれている「左翼」のイメージは必ず単に「闘争的」というよりかなり「暴力的」なものです。急進左翼をかなり嫌う私の家内も私に時として「仏教などを説いているあなたが暴力的でしかない急進左翼を支持するのが自家撞着なのだ」と一針を加えたりします。一度この部分を理論的に整理しなければならない気がするので、ここで少し本格的な考察をしてみたいと思います。
階級社会の秩序は基本的に国家と資本の「制度的」な暴力が支えます。学校とメディアが多数の大衆の脳裏に注入する「法」と警察、軍隊の存在がなかったら、果して三星電子は李氏王朝とその他の大株主の所有として残されえたのでしょうか。「法と秩序」の強制がなかったら、庶民が銀行でお金を借りて(大株主の配当金などに投入される)利子をきちんと返したでしょうか。このような制度は我々には「当然」のように見えますが、実際には強制力に支えられています。したがって、この制度を変えるのも結局潜在的な強制力の威圧であれ積極的な強制力の駆使であれ、ある程度の「強制力」を必要とします。前者には、たとえば大衆の支持を得た左翼が国家権力をある程度(不完全ながらも)掌握できたベネズエラの場合を挙げることができます。左翼の大衆性と民主主義的な選挙制などを利用する技術が優れているため、右翼は一応露骨な強制力の対決では勝ち目が低いと判断し、今まで左翼の「威圧」に押されたきり、大規模な抵抗を抑えてきたわけです。しかし、歴史的に我々の知っている絶対多数の革命的な試みは後者の方に属します。歴史的な経験を分析してみると、左翼の暴力行使にはいくつかの法則が見受けられます。
最も悽惨な暴力は、大衆的な基盤を持たない極少数の「超革命的」な組職が用いたりします。孤立した極少数であるだけに、常に危機感が漂い「敗北主義」や「裏切り」、「敵のスパイ」疑惑などが絶えません。上述した「連合赤軍」がまさにこのような組職の「典型」に近いものでした。こうした組職は―「連合赤軍」の事例からわかるように―また多くの場合は(極少数の組職などがしばしばそうであるように)カリスマ的な「指導者」に掌握され権威主義的に運営されます。これでは無分別な暴力の危険性が高くなるしかありません。逆に、敗北の状況に置かれたとしても、大衆性の高い左翼闘争なら「正当防衛」的な暴力は駆使しても、無分別な「過剰暴力」は憚られます。たとえば、真の意味での「大衆による民衆政府」であったパリ・コミューンは官軍に敗れてから官軍による虐殺行為に直面しながらも敵のスパイと反動分子63人のみを銃殺しました。参考までに、官軍によって虐殺されたコミューンの戦士とパリの労動者数は約3万人と推算されており、その後も1万3千人がさらに死刑と流配刑などに処されました。パリ・コミューンの場合は「武装防御」は存在したものの、私と話しを交わした国内の知識人が極力反対した「過剰暴力」はほとんどなかったのです。
革命家たちの大衆性の有無とともに、国際的に孤立しているかどうかも革命の暴力性に大きな差異をもたらします。たとえば、ベネズエラなどの南米、中米の左翼政権と身近に連帯しているキューバの場合は、「政治犯」(主に反革命的・親米的な性向の政治活動家: ) の数は―やや水増しされている保守的なメディアの報道によっても―167人にすぎません(http://www.bbc.co.uk/news/10517497)。この程度なら、「革命を守る」ための最小限度に近いといえましょう。逆に、キューバに比べてはるかに保守化し、イデオロギー的にも国家主義的な色合いが強く、しかも北東アジアで相対的に孤立した北朝鮮の場合は、真の意味での「反革命」とは無縁な数万人に登る政治犯たちが閉じこめられているという報道は、たとえ現地調査による確認は不可能であっても、一応事実に近いものとみられます。孤立した革命は保守化・民族主義化しやすいですが、一旦「包囲された要塞」のような雰囲気の中では「敵のスパイ」に対する被害妄想は激しくなるものです。ソ連の場合は、大粛清につながった集団ヒステリーのピークはソ連が相対的に孤立していた1937~38年であったことは、決して偶然ではありません。1945~49年間の東欧における共産主義的な政権の樹立、1949年の中国革命の勝利、1953年の朝鮮戦争の終了と南韓を基地とするアメリカ帝国からソ連を防衛する北朝鮮の「生存への成功」、そして1953年のスターリンの死以降は事実上粛清の悲劇は終りました。ソ連は最早一人の独裁者が保安機関を通して統治する孤立した国家ではなくなったため、制度の暴力性も極めて緩和されました。一方、中国の場合は、大躍進運動と文化革命の暴力はソ連/東欧との関係の冷却後から西側との関係の正常化以前、すなわち孤立期に現われました。この場合は国際的な孤立はいくつかの要因の一つにすぎませんでしたが、とにかく重要な要因ではありました。
おそらく完全な「無血の革命」は私たちの希望的観測にすぎません。そうなればすごくいいのですが、歴史的な経験から見ると、この夢の現実性には大きな疑問が提起されます。ただし、革命勢力の大衆性、民衆性、民主性などは革命の暴力性を大きく緩和することができます。最も大衆的な革命は最も非暴力的です。次に、革命にとっての孤立は死そのものであるため、国際的な孤立を避け常にプロレタリア国際主義路線に従うことは、内部的な最悪の暴力を兔れる道です。また、超左翼的な性向はよく「過剰暴力」をもたらすため、左翼の現実的な綱領は常に大衆の準備状況と当面の欲求、そして当面の状況の現実的な特徴をよく考慮しなければなりません。大衆的、民主的、現実的、国際的な性格の革命勢力なら「正当防御」はしても少なくても「暴力のための暴力」を避けることができます。このくらいが革命の歴史が私たちに与えてくれるなぐさめでしょう。戦争などに塗りつぶされた私たちの現実からすれば、もしかするとこの「果てしない無惨さ」(マルクスのことば)よりは革命の方がはるかに非暴力的なのかもしれません。私のような「仏教を説いたりする」人間さえも革命が好きになりうる理由はここにあるのです。