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[朴露子コラム] 狂風の中の大韓民国

登録:2011-04-26 08:10

原文入力:2011-04-24午後07:50:26(1820字)

←朴露子(バク・ノジャ、Vladimir Tikhotov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

ストレスが溜まれば個々人は一瞬にして精神的な問題を起こしうるように、社会全体もたまに集団精神病ともいえる狂風にさらされることがある。そのような大狂風は通常、過渡期や深刻な危機が迫ってくる時代に起こったりする。

たとえば、近代への過渡期といえる15~18世紀のヨーロッパにおいては極端な社会不安が「魔女狩り」という大狂風につながっていった。数万人の女性が火刑に処されるあの狂風のるつぼで近代的な家父長制の枠が強固になったともいえる。そのような意味で全社会的な狂風は、単なる非合理的な現象であるというより、一般的に支配者たちの利害関係と緊密につながっているのである。同じ結論は1958~61年に進められた中国の「大躍進運動」から導き出すこともできる。農業の無理な集団化に続き無理な穀物増産量が割り当てられ、過去と完全に異なった生活方式を強いられた農民たちの混乱に加え自然災害までが襲い掛かり、数百万人の餓死者が発生してしまった。経済的な側面でいえば、否定的な結果しか出なかったものの、政治的には人民の自発性が萎縮し上意下逹体制が強化されるなど、新興官僚層が革命を領有するための一つの重要な一里塚となったのである。

魔女狩りや大躍進運動は過去のことであるが、現在の大韓民国もこれに劣らない狂風に晒されている。それがまさに「競争」なのである。資本主義経済理論によれば、同種業者間の競争は技術革新の促進や価格談合の防止などといった順機能もあるといわれるが、市場の企業に限って言っても、この順機能に劣らないか、もしくはそれ以上に逆機能も発生するのである。たとえば配達業者たちの無理な速度・価格競争の中で事故率が高くなり労働者たちが矢継ぎ早に障害者になったり命を失うようになったら、私たちは果してそのような「超高速・超低価配達サービス」を気楽に利用することができるだろうか。資本主義経済のモデルとはいえ、「無限競争」は無限搾取と労災率の無限暴騰を意味するだけである。

ところが韓国社会で言われている「競争」とは単に業者間の競争のみを意味するものでもない。自分の労働力以外にいかなる資産も持たない多数の労働者やこれから労働者になろうとする若者たちが、その労働力を学歴という看板で包装し、熾烈に先を争って少数の企業主や役所に売ることがよく言われる「無限競争」の現場である。労働力、すなわち疎外された人間の本質、人間の自己実現能力が商品に変わることは資本主義世界ならどこでも起こる悲劇である。しかし、韓国ほど労働力の販売者が不利な条件に置かれている社会はきわめて稀である。幼稚園時代から仲間たちと熾烈に押したり押されたり、踏んだり踏まれたりする競争に巻き込まれ、自分の労働力という商品を彩る様々な包装紙、すなわち最近の言葉でいえば、「スペック」を積んでいく光景はまさしく狂風というべきであろう。最近カイストで若い青春を悲劇的に終えた方々は、まさに魔女狩りや大躍進運動に比較しうるこのような全国的な狂風による新しい犠牲者たちである。彼らが「名門大」に通っていたため私たちは少なくとも彼らの存在は知っている。名もない高校生が競争の狂風に晒され成績不振で自殺したとしても、それは全国的な話題の種とはならないだろう。

従来、社会進化論は競争により「不適者」が淘汰され「適者」が生き残る以上、競争は窮極的に社会全体に有利だと主張されてきたが、韓国で「社会貴族」らが幼い時から接近が容易い英語のような領域で繰り広げられている学歴競争の場合、勝つことになっているのは適者ではなく既得権層の構成員である。歴史の中の多くの大狂風がそうであったように、これも徹底的に支配者の利益に合致した狂風なのである。大多数の被搾取階級の構成員たちは「競争」で勝つ確率が全くないだけに、むしろ競争という構図そのものを連帯の力で突き破った方が遥かに合理的であろう。そうでもしなければ、私たちに少なくとも自殺の影をちらつかせない生存など保障されはしないだろう。

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/474568.html 訳GF