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[ホン・セファ コラム] 労働柔軟性? 歴史の退行!

登録:2011-04-20 10:02

原文入力:2011-04-19午後07:57:43(1870字)
←ホン・セファ<ルモンド ディプロマティーク>韓国版編集者

キム・ジンスク民主労総釜山地域本部指導委員が韓進重工業 影島造船所の35mクレーンに上がり今日で105日目だ。8年前にキム・ジュイク韓進重支会長が自ら命を絶つことにより129日間の座り込みを終えた まさにその85号クレーンだ。時事週刊誌<ハンギョレ21>は先週号の表紙にその前の17号タワークレーンに登ったムン・チョルサン金属労組釜山梁山支部長とチェ・キリョン韓進重支会長の姿を載せた。資本の貪欲はどこで止まるのだろうか。また、労働柔軟性が不足しているために雇用創出が難しいという彼らの話はどこまで真実なのであろうか。韓進重工業は去る20年間、ただの一度も赤字を出さなかったというのに、去る2月14日 大規模整理解雇を断行し職場閉鎖を行った。

整理解雇された労働者たちや非正規職労働者たちには4月だけが残忍な月ではない。放送会社が花見客の楽しそうな姿を伝えている時、巨済では高圧電流が流れる鉄塔に登ったカン・ビョンジェ大宇造船下請け労働者組織委員会議長が「労働者の暮らしが資本家の利潤よりもっと大切だ」と叫んでいる。労働者の暮らしが資本家の利潤よりもっと大切だ…。見事に咲いた桜の花の前の花見客たちは、このことをわからないのだろうか。その明るい表情に違和感の代わりに無力感が重ねられるのは私だけであろうか。

国家機関を思う存分に蹂躪した三星権力の前で、龍山惨事の前で、双龍自動車労働者や才能教育をはじめとする‘特殊雇用’労働者たちの力に余る戦いの前で無力感が胸に染み入る度に、私たちはどうせならと横を向いて沈黙しているのかも知れない。その方が小さな実践もせずに大企業正規職の利己主義を非難するばかりの人よりはマシかもしれない。

だが、無力感があらゆる事を語りも覆いもしはしない。資本主義社会に対する批判的認識が不足していることが、さらに基本的であり重要な要因でありうる。私たち皆が‘資本主義社会’に生きているならば、小中高教育課程にあまねくある‘社会’教科で最も重点的に勉強することの一つが資本主義であることは明らかだが、勉強したことが殆どない。実際に、資本主義の歴史、労働運動の歴史、労働と資本の矛盾関係、社会的弱者である労働者の権利などに関し勉強したことが殆どないではないか。

社会構成員が資本主義社会に生きているという点を知っているだけで、資本主義社会を批判的に認識できないこと、資本(カ)に対する自発的服従において、これほど良い土壌はない。その認識不足から抜け出そうとして‘資本主義研究会’のようなサークルを設け勉強する大学生たちに国家保安法の網をかけ捕まえて行く国が大韓民国だ。なぜ私たちは資本主義社会に生きながら資本主義を理解してはいけないのだろうか? なぜ私たちは資本主義体制に順応する歯車としてのみ容認されるのだろうか? 人間の本性が自由を指向するならば、この問いの前に省察してこそ適当ではないのか。

そして、私たちは少なくとも‘起業しやすい国’韓国で‘労働柔軟性’というもっともらしい言葉が非正規職化、整理解雇と全く同じ言葉であり、社会安全網が殆どない私たちにとって、それはチャールズ・ディケンズやエミール・ゾラが描いた19世紀資本主義社会での退行を持たらすだけだという点を正確に認識しなければならない。換言すれば、その強力な貫徹は資本主義の下で世界労働階級が少なくとも200年間の労働運動、社会闘争を通じて獲得した果実を一度に踏みつぶす結果を持たらすということだ。これに対する警戒心が不足したのは、いわゆる民主改革勢力がそれを受け入れたという点も作用した。

私たちの社会で労働柔軟性という怪物をはね除ける時まで、各人の胸にうごめいている怒りが連帯の川となって流れなければならない。その出発が無力感から抜け出すことにあるならば、見ないフリをする代わりに直視する不便さを選ばなければならない。タワークレーンに登った労働者たちと小さな連帯でも強く実践し、街頭と広場で戦う非正規職労働者たちに近付き、その孤独な手を握らなければならない。

<ルモンド ディプロマティク>韓国版編集者 hongsh@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/473809.html 訳J.S