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異常な世の中の正常人: 李泳禧(リ・ヨンヒ)先生を悼む

登録:2010-12-11 14:19
http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/30164

原文入力:2010/12/09 19:09
朴露子(バク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

 一般に亡くなられた方に対しては必ずといって良いほど「心より悼む」といいます。しかし、敢えてそのような社会的強迫を意識せずとも、先日 李泳禧先生の訃報を聞いた時、私はとても深い悲しみに包まれました。それは必ずしも先生の逝去に対する悲しみからではありませんでした。1999年に初めて李泳禧先生にお目にかかって以来、私の知る限り先生はすでに生死の境を超越された方でした。<金剛経>を常に誦しておられ、生も死も つまるところは泡や影に過ぎないことを悟っておられた先生におかれては、この娑婆世界を後にして より良い世界に向かわれることはそれほど怖くて大変な「歴程」ではなかったかもしれません。実は、私にも望みが一つあるとすれば、口先ではなく心の底から先生並みに仏教的死生観を身に付け、生への欲も死への恐怖も振り捨てることです。とにかく私が今 悲しいのは、あの世で多くの縁者たちに再会していらっしゃる先生に対するものではありません。こんなに異常な世界を明るく照らしておられた、数少ない真の「正常人」が私たちのそばを離れてしまわれたために、私たちに格別に馴染み深いあの集団精神病が一層早い速度で、一層致命的に私達を飲み込んでしまうかもしれないと思え自然に悲しくなるわけです。

 すでに読んだ人はおそらく肯かれると思いますが、李先生の<歴程>という自伝的エッセイ集は、実は韓半島の現代史の真実を知りたい人の必読書にならなければならないでしょう。先生はマルクス主義に基づいた科学的な社会分析を駆使したわけでもなく、特定の「進歩的理念」の視点からこの本を書かれたわけでもありませんが、それでも明らかにそうなのです。その理由は簡単です。あらゆる個人的、集団的な幻想を捨て「真理、ひたすら真理、真理のみ」を追い求めた「覚めた精神」の持ち主であった先生が、目の当たりにした現代史の真実がこの本には惜しみなく盛り込まれているからです。その真実は時にはとても恐ろしく、時には忘却したくもなる類のものです。たとえば、1941年に日本人の校長が朝鮮人に向かって、対米宣戦を布告した天皇の勅語を読み上げる場面(33頁)をもう一度深く読んでみてください。年長の朝鮮人たちは「戦争」という言葉のもつ不気味さに襲われ塞ぎ込む一方で「バンザイ」を唱えた若者たち、そして中国大陸を席巻しアジアでその覇権を固めるかのように見えた「無敵皇軍」への自分を含む少年たちの憧れの幻想などを、先生は残忍なまでの正確さで指摘しています。帝国の戦争を熱裂に歓迎する魂を奪われた植民地人、私たちが認めたくない、消してしまいたい恐ろしい記憶ですが、この記憶を反省せずに消してしまうなら、このような歴史はまたいとも簡単に繰り返されるということがもう一つの恐ろしい真実です。今、アメリカ帝国と半人前の準帝国 日本に歩調を合わせヒステリックな反北キャンペーンを盛り上げている数多くの「善良な国民」たちを見てください。「無敵米軍」が「北朝鮮共産主義者集団」を簡単に撲滅し、中国をその威厳の下に屈服させると無邪気に信じている彼らは「戦争も辞さない」という反北強硬路線が遂には北東アジア全体を再び廃墟にする大きな覇権争いにつながりかねない点をまったく見ていません。「鬼畜米英殲滅のための聖戦」の詔勅頒布にバンザイを唱える人々と一体どこが違うでしょうか。

 最近、韓国の保守系を席巻しているもう一つの -やや弱めの-集団精神病は、いわゆる「建国熱風」です。労動者の血と汗で成し遂げた「経済成長」でいい気になり、自尊心でも盛り立ててみようという南韓の「親分」たちは、革命的・反帝国主義的な過去を強調する北側との「イデオロギー競争」次元で、自分たちの出自をやや美化したことになるでしょう。日帝時代に総督府にくっ付いて朝鮮の労動者たちの膏血を絞り取ったことも、すべては「文明と国家の発展のため」ということになってしまうわけですが、特に「自由陣営の先頭走者であるアメリカのためなら、第3次世界大戦を起こし韓国をすべて犠牲にし尽くしてもかまわない」と誓った、その驚くべき忠誠心の持ち主である李承晩を「建国大統領」に仕立て上げることが重点中の一つです。英語に狂った世の中に、李承晩の「パーフェクト・イングリッシュ」にうつつを抜かし、実際には労動者たちを機械のようにこき使い「成長」を成し遂げた朴正煕よりは、むしろ「プリンストン大学の博士」を前面に押し出しているのでしょうか。高木正雄の「時代遅れ」な日本語に比べ、「ドクター・リー」の 「アクセントレス・イングリッシュ」(accentless English)は、どうしても「オレンジ」の世の中にふさわしいアイテムになるのでしょう。とにかく、本人もろくに読めないフランス語やラテン語の文献は「引用」しておきながら、朝鮮のことには一言もふれなかった「学位論文」(私はプリンストン大学に行った際、その論文を見つけてコピーしましたが、その作成や通過までの経緯などはとても気になります。今後の研究課題の一つになるでしょう)で「博士」となった「建国の父」「民族の太陽」「キリストや釈迦よりもはるかに謙遜な方」(すべてその時に実際に使われた呼称)がワシントンへ行き韓国で花を咲かせた「多元的なジェファーソン流民主主義」を宣伝していた同じ時期に、「ドクター」になるお金のない民衆たちが この地でどうやって生きていたかが知りたければ、ぜひ<歴程>をお読みください。

 草創期の韓国を身をもって体験された李先生が本でも口頭でも回想の中でも繰り返し指摘されたのは、すなわち「国家の無限なる暴力」でした。反対者を虐殺し、その家族を連座制で一生苦しめ、弱者を軍隊に徴集し、同族同士が殺し合う無意味な戦争の弾除けとして利用し、アメリカ帝国の援助も国家の資金もすべて盗みの対象とみなし支配層たちが私服を肥やしたのが、暴力政治と「泥棒政治」(cleptocracy)の典型としての初期 大韓民国でした。本の内容で最も痛ましい部分は、1950~51年の「国民防衛軍」に関する話です。人民軍に押されていた「国軍」は後退する際に、通過する地域の成人男子をすべて徴集(事実上、国家による拉致)しました。ところが、「防衛軍」に強制的に組み込まれた男たちに支給されるはずの食糧などは 偉い「指導層」によって盗まれていたために、数千人から数万人に及ぶ徴集被害者たちが飢死してしまったのです。強盗を彷彿とさせる「国軍」の将校に渡す身代金のある家の壮丁は生き残り、金のない家では拉致のように徴集され餓死してしまったことでしょう。<歴程>には徴集という名前の国家的暴力がどのように弱者だけを苦しめたかに関する詳細な記述が豊富です。たとえば、生存率が微々たるものだった残酷極まりない香炉峰奪還作戦に投入された新米兵士およそ百人に「中卒以上の人はいるか」と聞かれた李先生は、手を上げた人は3人だけだったと述べておられます(218頁)。教育を受けられるほどの家ではお金を使って徴集を逃れることができたのですが、そうでない家は有無を言わさぬ国家暴力にさらされ、夫や息子たちを死地に送らざるを得ませんでした。前線で軍事物資を横領転用したり、「コネ」を使って 後方に移してもらいうまく生き残った将校たちは、後に誇らしき大韓民国の「指導層」または富裕層になった一方で、国家暴力を回避したり抵抗できなかったという唯一の罪(?)で死地に陥れられた貧民たちの白骨は未だにすべてを捜し出すこともできていないのです。これらのことが李先生があまりにも知り尽くしておられた、しかし世間がとかく忘却しようとしている私たちの「建国史」の真実なのです。

 李先生の肉身は死滅しましたが、常に実事求是の姿勢で真実、真理、誠 を追究しようとした その「偉大なる正常人」の覚めた精神はいつまでも私たちと共に生き続けることでしょう。その精神が私たちと共に生きていればこそ、私たちは真実、生命のために一生懸命に闘い、先生が経験されたその恐ろしい戦争の反復を防ぎうるかもしれません。これこそが先生が死後に託された最も肝心な中身ではないでしょうか。

原文: 訳:GF