原文入力:2010-11-10午後08:16:22(1869字)
←チョン・ヘシン精神科専門医.
数十年間 野球解説をした人がサッカー国家代表チーム監督として赴任するならば? できないことはないが合理的論議と検証要求が起きる現象は当然だ。
国家人権委員会ヒョン・ビョンチョル委員長は昨年7月、まさにそのような論議と憂慮の中で就任した。民法を専攻した法学者だったが、人権に対する専門性と経験が全くなく‘人権門外漢’という批判が提起されるほどだった。出発時点のそのような憂慮と批判は現在、空前絶後の人権委員長辞退要求につながっている。40ヶ余りの市民団体活動家たちは占拠座り込みで、前職国家人権委員たちは記者会見で、41人の野党議員たちは声明書で、言論人と人権運動家たちは文とインタビューを通じて、彼が人権委員長の席から退かなければならないと主張している。彼の経歴と背景を問題にしているわけではない。それでも進歩、保守などの理念や政治的理由が介入したとすれば、このように辞退要求が全方向的で一斉に起こることはない。人権委員会の首長として、この間 彼が見せた理解されず容認されない奇異な行動が主な理由だ。人権委内部関係者でさえヒョン・ビョンチョル委員長の就任後、人権委が決して進んではいけない道を歩んだと嘆いている。
人権委の誕生理由と存立根拠が意見表明や勧告であるのに、ヒョン委員長は社会的論難を加重させる懸案や現政権にとって負担となる勧告は絶対してはならないという確固たる原則があるようだ。音の出ないオーディオのように沈黙モードで一貫している。
人権委の2つの本質的価値である独立性と合議制運営も使い古した履物の如く取り扱う。常任委員たちが自身の思い通りに動かないので、その権限を縮小し人権委を事実上 委員長1人体制に転換する案件を提出し、常任委員たちの同伴辞退を誘導する。職員たちは誰もそのように考えないのに、委員長という人は国会に行き人権委が行政府の所属機関だと発言してはばからない。だが、そのような形態の中でも白眉は、龍山惨事と関連して裁判所に意見表明をするために開かれた人権委員会の会議の席で彼がしたという言葉と行動だ。意見表明について賛成側に結論が出ようとするや‘独裁と言われても仕方ない’という話と共に議事棒を叩き、一方的に閉会を宣言したという。若い人の表現を借りれば、これ何なの? 人権の概念をきちんと教えてやると言い、頬を殴りながら教えようとするようなものだ。
人権委員は徹底して人権的に考えれば良いという人権委関係者の話は全く正しい。自身を任命した主体を代弁したり、判決に影響を及ぼすのではと分不相応に心配する必要はない。ヒョン委員長は国家人権委員会と国家情報院のような政府組織の首長がする役割を同一に認識しているようだ。任命権者が同じ人であるとか、組織の究極的役割も全く同じにならざるをえないと考えるということだ。そうでないならば人権委最高責任者としてこんなことはできない。
予算が多かったり社会的影響力が大きい組織でもないのに、この社会の大多数構成員が異口同音に概念を喪失した人権委員長の辞退を要求しているという現実が、ある意味では私はうれしい。人権委が持つ社会的肺としての重要な機能を知っている人々がそれだけ多いという証拠だからだ。
だが、大韓民国の人権の尺度を高めるための最初の課題が、国家人権委員会委員長の辞退でなければならないという現実は複雑で息苦しい。人権委員会は理想的であれ現実的であれ人権という側面で問題提起を行う。政府がその勧告を受け入れるのかやめるのかの可否は政府の成熟程度にかかっていると聞いた。同様な脈絡でヒョン・ビョンチョル委員長が辞退勧告を受け入れるのか受け入れないかもまた、本人と任命権者の成熟度合いにかかっていると私は信じる。
すべての人は生まれながらに自由で尊厳で平等だという、この当然で天性の人権の概念に対する理解がなかったり、あるいは理解したくもない人が人権委員長だということは悲劇的コメディだ。人権を空気と全く同じと知っていて、したがって人権が法の上にあると信じる多くの国民はこのように挨拶するほかはない。グッバイ、ヒョン・ビョンチョル
精神科専門医、ツイッター@mindjj
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/448088.html 訳J.S