原文入力:2010-09-15午後06:56:53(1612字)
←ウ・ソクフン2.1研究所所長
マイケル サンデル ハーバード大教授の法哲学授業を本にした<正義とは何か>が出版4ケ月にもならずに40万部を越したという。その誰もが越えることができないと思った村上春樹の<1Q84>と数か月目で固い人文社会科学分野の本が1位を争っているこの驚異的な現象をいったいどうすれば説明できるだろうか? 相変らず大部分の社会科学書が損益分岐点である2000冊を越えられず1刷を売り切ることができない状況だ。マーケティング、ハーバードの名前、そんなことだけではこの現象を説明しにくい。同じ著者の次の本である<生命の倫理を語る>の販売量は前作とは比較しにくい水準だ。正義、いよいよ韓国社会が全斗煥政権の‘正義社会実現’以後、自ら正義とは何かという質問をし始めたのではないか?
ちょうど現政権で‘公正な社会’という国政基調を提示した。総理候補者をはじめ長官候補らが聴聞会を通過できず、金大中政権の‘洋服ロビー事件’を連想させる‘有名な娘事件’が起きた。21世紀の最初の10年を経済原理主義で「お金があれば最高だ」と言いながら生きてきた私たちが、突然哲学的質問の前に立っているようだ。本来、哲学的質問は時代の問いだ。ロゴスが初めて哲学に登場しソフィストの詭弁論の時代を克服したのはペルシャがギリシャに攻め込んだ時のことだ。この危機の前でソクラテスが 「汝自身を知れ」という言葉で西洋社会では初めて絶対真理を提示したではないか?
流れを見るならば2010年の韓国は68革命が終わり福祉国家の枠組みを捉えて進み始めながら哲学的質問を吐き出した1970年代初中盤のヨーロッパと似ていると言える。彼らも私たちが先進国と呼ぶそのような形の社会を作りながら同様な質問をした。私たちがよく使う‘疎通’という表現は、ハーバーマスが1976年に提示した概念だ。しかしそれより1年前、今の<正義とは何か>ほどにドイツ社会を揺さぶった本がまさにハーバーマスの<正当性の危機>という本だ。 正義、公正性のような概念が‘どのように’に関して質問する概念とすれば、正当性は‘誰が’という質問だ。誰がするのだろうか? 経済的効率性と成果がIMF経済危機以後の去る10年間 韓国を支配した概念ならば、今やいよいよ私たちもヨーロッパの70年代と同じく新たな質問を始めることになったのか? それなら次の問いは恐らく正当性の質問になるだろう。
行政高等試験など高等考試の弊害が侮れないが、私たちは考試を廃止する準備ができていない。なぜならその選抜過程を担当する人々が正当だという信頼を私たちが持ちえないためだ。長官が自分の娘を特別採用するのを見ながら、貧しくても有能で賢い若い友人らを事務官に選ばないことということを信じて疑わないのはあまりに当然ではないか?
韓国は人を信じずにコンピュータを信じる国だ。だから客観式試験の弊害を知りながらも大学入試に主観式試験を全面的に導入できない。採点だけではない。アパート分譲も基準を定めてコンピュータで順位を配分しなければならず、全てのことがそうなっている。大学入試に野心に充ちて導入した入学査定官制も成功しにくい。私たちは入学査定官が公平にするという正当性を付与できないのではないか? 一言で、正当性が危機の状態で数十年を生きてきたわけだ。公正な社会で行為者を信じられる正当性の時代に韓国は移るのだろうか? このような哲学的質問と共に、もしかしたら私たちは本当に先進国になるかも知れないという希望を夢見始めたようだ。
ウ・ソクフン2.1研究所所長
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/439945.html 訳J.S