「佐渡鉱山に強制動員された朝鮮人労働者神位」
素朴に設けられた祭壇の上には、日帝強占期(日本による植民地時代)に佐渡鉱山で強制動員の末に亡くなった方々の位牌が置かれた。犠牲者の遺族らは、韓国から用意してきた酒を盃に注ぎ、祭壇に捧げた。遺族たちもすでに高齢であるため、酒を捧げるためひざまずくとよろめいて倒れそうになる人もいた。韓国政府関係者が追悼の辞を述べる間、一部の遺族たちは長年胸にしまってきた悲しみがこみ上げる様子で、涙をぬぐっていた。25日、佐渡市相川次助町の佐渡鉱山の朝鮮人強制動員労働者たちが暮らしていた独身者宿舎「第四相愛寮」の跡地前の風景だ。
この日、韓国政府は第四相愛寮の跡地で、佐渡鉱山で強制労働に就いた人々の追悼式を執り行った。前日、日本政府が主導した「『佐渡島の金山』追悼式」に不適切な人物を中央政府代表団として派遣したなどの理由で出席を見送った後、韓国政府関係者と遺族9人が独自に執り行った式典だった。韓国政府関係者をはじめ30人余りが追悼式に出席した。
韓国政府代表者として参加したパク・チョルヒ駐日韓国大使は追悼の辞で「80年余り前に佐渡鉱山に強制的に動員され、苛酷な労働に苦しんだ末に亡くなられた韓国人労働者の方々の英霊に、頭を下げて深い哀悼の意を表する」とし、「生前、故国の土を踏むことができず、永遠に愛する家族の元に帰ることもできず亡くなられた韓国人労働者の方々の無念、そして解放後に帰国されたが、事故の後遺症と塵肺症などで依然として苦しい日々を送らなければならなかった方々にとっては、どんな言葉でも真の慰めにはならないだろう」と述べた。さらに「80年余り前の痛ましい歴史が記憶され続けるよう、韓日両国が真摯に努力していかなければならない」と述べた。
この日の式典は韓日政府関係者らが共に出席して行うことに合意した「『佐渡島の金山』追悼式」が事実上失敗に終わり、急きょ、窮余の策として設けられたものだ。前日、日本政府が事実上主導して行われた追悼式では、日本政府代表だった生稲晃子外務省政務官(次官級)が公式追悼式で佐渡鉱山朝鮮人労働者に対する「強制労働」を最後まで認めなかったためだ。
韓国外交部は、韓国政府が独自に設けた追悼式典について、「歴史問題について、日本側と妥協しないという韓国政府の確固たる意志の表現」だとし、「このような原則をもとに、韓日両国の利益に合致する両国関係の発展に向け、引き続き取り組んでいきたい」と強調した。
佐渡鉱山の第四相愛寮は日帝強占期に山ノ神社宅、第一・三相愛寮と共に朝鮮人労働者が暮らしていた宿舎の一つ。この日の式典は事実上、日本政府が主導した「『佐渡島の金山』追悼式」が行われた場所から徒歩25分ほど離れたところにある。強制動員当時、佐渡鉱山にたばこを配給していた富田たばこ店の配給名簿によると、第四相愛寮には主に全羅北道の裡里(イリ・現在の益山)から連れて来られた労働者が住んでいたという。
様々な記録と証言は、佐渡鉱山の強制労働の歴史を物語っている。 日本の新潟県が1988年に発行した『新潟県史通史編8近代3』には「昭和一四(一九三九)年に始まった労務動員計画は、名称こそ『募集』『官斡旋』『徴用』と変化するものの、朝鮮人を強制的に連行した事実においては同質であった」と記されている。
日帝強占期に佐渡鉱山の第四相愛寮で生活しながら強制労働の苦痛を味わったチョン・サンドンさんの三男、ウンジンさんは、昨年発刊された「韓国・強制動員の証言と交流の集い」の資料集で、「5代独子(5代続けて息子が一人しかいない)だった父親は親戚もおらず両親を養いながら農作業に勤しんでいた家長でしたが、30代後半に年老いた両親と妻、幼い娘と生まれたばかりの息子を離れ、佐渡鉱山に連れて行かれた」とし、「村で動員対象として2人が割り当てられたが、皆行くのを嫌がり、くじを引いて決めたという。それで同じ村のイ・ジェファさんと父が選ばれ、無理やり連れて行かれることになった」と証言した。
日本の公共放送のNHKも過去「50年目の真実 佐渡金山『強制連行』の傷あと」という番組などで、佐渡鉱山の朝鮮人強制連行を追跡調査して報道したことがある。佐渡鉱山朝鮮人強制労働資料集の出版などに関わり、この日の追悼式に出席した佐渡市の荒井真理議員は「(日本政府が)謝罪すべきことが多いと思う」と記者団に語った。
韓国政府と遺族が出席した中で開かれたこの日の追悼式は、午前9時5分頃に始まり、約10分間執り行われた。第四相愛寮の意味について説明が行われた後、パク大使の追悼の辞、黙祷、献花などの順で進められた。その後、遺族たちが用意した酒を捧げるなど、個人的に追悼する時間も設けられた。遺族らは同日、佐渡鉱山、坑道などを視察した後、帰国する予定だ。