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一家で5回も避難「私たちは死の順番待ちをしているのかもしれない」(1)

登録:2024-10-05 07:02 修正:2024-10-05 07:41
2日、パレスチナのガザ地区のハンユニスで、住民たちがイスラエル軍の空襲で倒壊した住宅の周りに立っている/ロイター・聯合ニュース

ガザ戦争1年//ハンギョレ新聞社
 「過去(2012年11月、2014年7~8月)にもイスラエル軍の攻撃は何度もありました。15日、60日も続きました。ところが、この1年はこれまでの私たちの人生で最も苦しい日々でした。この残忍な戦争がこんなに長くなると知っていたら…」

 ソウルからパレスチナのガザまでの距離8135キロメートル。「地球上で最も大きな監獄」(横10キロメートル、縦40キロメートル、面積360平方キロメートル)と呼ばれるガザ地区南部の都市、ディル・アルバラ難民キャンプに滞在している英語教師ラジャー・ランティシさん(38)は、ガザ戦争が続いたこの1年間を「苦しい道のり」(painful journey)と語った。ハンギョレは8月26日から1カ月間、モバイルメッセンジャーの「ワッツアップ(WhatsApp)」でラジャーさんにインタビューし、ラジャーさん一家の「苦しい道のり」について聞いた。

 昨年10月7日(現地時間)午前6時30分頃、イスラム組織ハマスがイスラエルに向けて5千発以上のロケットを発射し、隊員たちがイスラエル南部の国境を越えて攻撃を開始した。ハマスが「アルアクサの洪水作戦」と名付けたこの攻撃で、イスラエルで1200人が死亡し、240人余りが人質に取られた。直後にイスラエルが報復に乗り出したことでガザ戦争が勃発。7日で1年を迎える。

9月2日、ラジャーさんが難民キャンプ生活について語りながら送ってきた写真=ラジャーさん提供//ハンギョレ新聞社

 戦争が始まった昨年10月7日、ガザ地区北部にあるガザ地区最大の都市ガザ市に住んでいたラジャーさんは、いつものように子どもたちの登校の準備を手伝っていた。戦争が始まったというニュースはフェイスブックを通じて知った。今何が起きているのか全く分からなかった。パレスチナ教育部から、これから「休校にする」というメッセージが届き、やっと事態の深刻さに気がついた。

 ラジャーさんの四女(7)は学校に入学したばかりだった。娘のおもちゃと本は学校に残されていた。国連人道問題調整事務所(OCHA)によると、ガザ地区の人口の90%に当たる190万人あまりがガザ戦争勃発後に避難し、ラジャーさん家族もそうだった。

 夫のヌルディーンさん(47)が南部へ行こうと提案し、一家は10月12日に家を出た。戦争が起きて6日目だった。その時は長男のジャベル(16)と長女のマルヤム(15)、サレハ(12)、マイス(7)、ラザン(6)まで7人家族はこのように長い間家に帰れないとは誰も思わなかった。

 「一週間以内に帰ってくるつもりで、少しの洋服とパンのような食べ物だけを用意しました。しかし、私たちはその後4つの都市をさらに転々としなければなりませんでした」

戦前のラジャーさん夫妻の姿=ラジャーさん提供//ハンギョレ新聞社

 ラジャーさん一家は車で10キロメートル離れたガザ中部ヌセイラト難民キャンプにまず身を寄せた。ヌセイラトは1948年の第1次中東戦争当時、パレスチナ難民を収容するために設立された歴史の長い難民キャンプだった。翌日の10月13日、イスラエルはガザの住民230万人のうち北部住民110万人に対し、北部から避難するよう求めた。

 戦争初期、イスラエル軍はガザ市を中心に北部地域を集中攻撃し、ガザ住民にウサギを追い込むように中・南部に移動しろと脅した。ラジャーさん一家はヌセイラト難民キャンプの学校に泊まっていた。ラジャーさんは日を追うごとに強まる寒さと空腹が耐えがたかったと、昨年秋の状況を振り返った。

 「暖かい服が必要でした。戦争後、収入はないのに物価はどんどん高騰しました。毛布の1枚の値段が戦前より2倍も高く、25ドルまで上がりました。ジャガイモと玉ねぎも3倍になり、25キログラム入り小麦粉の価格が200ドル(戦前のラジャーさんの給料は月400ドルだった)を超えるほど値上がりしました。動物の飼料の原料として利用するトウモロコシと大麦の粉を食べて耐えていました。それも1日1食だけでした」

 ところが、ヌセイラト難民キャンプにも長く滞在することはできなかった。イスラエルが再び空爆を行い、避難命令を下したためだ。昨年12月20日、姉のブシュラさんの自宅のあるガザ中部の都市マガジまで4.2キロメートル移動した。ブシュラさんのマンションには、すでに別の姉のアイシャさん一家(5人)が避難していた。

 ブシュラさん一家7人、ラジャーさん一家7人まで加わり、計19人が狭いマンションで寝泊まりしていた。ブシュラさんの夫は糖尿病、腎臓病などで衰弱し、一人では起き上がれない状態だった。甥たちは自閉症と統合失調症を患っているが、薬を手に入れるのが難しかったとラジャーさんは語った。

 ラジャーさん一家は今年1月の初日に再びマガジを離れ、約30キロメートル離れたガザ地区最南部のラファに到着した。義理の妹が住んでいる都市であり、エジプトとの国境に近いここを通じて、数十年間ガザ地区に救援物資などの物品が入ってきた地域だ。ラジャーさんは「ここが安全なところなのか分からず、10日間ずっと不安だった」が、同月10日に一家が寝泊まりするテントを張った。

 テント生活を始めてから、家族は病気にさらされるようになった。ホームレス同然の生活のため、住民の頭にシラミが急速に広がった。ナイロンと布でできたテントは非常に狭く、熱気がこもり、生活するのが大変だった。特にきれいな水を手に入れることが難しかった。

 「テントは安穏な生活の場ではありません。果物や野菜、薬が買えないから、体調を崩し始めました。水を手に入れるため、3、4時間ずつ並ばなければなりません」

 難民に提供される毎日ほぼ同じ食べ物(米、スパゲッティ、レンズ豆)で食事を済ませた。高価なパンが買えない多くの人々が、長期戦になりつつある戦争の中で缶詰に頼るようになり、栄養状態はさらに悪化した。それさえも食事を取るために、子どもたちまで1時間も並ばなければならなかった。

(2に続く)

チェ・ウリ記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/international/arabafrica/1160984.html韓国語原文入力:2024-10-04 17:22
訳H.J

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