日帝強占期(日本の植民地時代)の強制動員の被害者で、10代の頃に日本の戦犯企業である不二越で働かされたチュ・グミョンさんが、日本の謝罪を聞けずに世を去った。享年96。
(社)日帝強制動員市民の会は18日、チュさんが肺の疾患で入院治療中に、前日の17日に死去したと明らかにした。
16歳で日本の不二越の工場に強制動員
「汁物が少し、ご飯も少しで、鉄ばかり削った」
米軍の爆撃で一晩中泣きながら隠れていたことも
2019年に損害賠償請求訴訟も
日本政府の非協力で訴状送達が遅延
裁判開始を5年待った末に死去
「幼くして連れていかれ苦労した
補償してくれたらそれ以上望むことはない」
全羅南道羅州市(ナジュシ)で生まれたチュさんは、羅州大正国民学校(現在の羅州初等学校)に在学中だった1945年2月、16歳で日本の富山にある不二越の工場に友人たちと共に強制動員された。不二越は軍需工場で、朝鮮から1千人以上の10代の少女を強制動員した、最大の勤労挺身隊動員の事業所。チュさんらは同工場で製品の切削工程に投入された。
チュさんは2020年に日帝強制動員市民の会が発行した口述記録集「空腹で殴られながら白いイバラの花をなめた」で、「日本人が学校に訪ねてきて、『日本に行けばお金も稼げる』とさかんに言われたので志願した」とし、「母は『子どもがそんな所まで行って何で稼ぐのか』と言ってひどく泣いた」と証言している。
富山にある不二越の工場に動員されたチュさんは、賃金も受け取れず、辛酸をなめた。チュさんは口述記録集で当時を振り返り、「富山に着いてみたら、雪が山のように積もっていた」、「日本の女性に鉄の切れ端を機械に当てて丸く削る方法を学んでから、毎日少しの汁物と少しのご飯だけ与えられ、鉄ばかりを削っていた」と語っている。家に手紙を送りたくても紙と鉛筆、切手代がなく、郵便局もどこにあるのか分からなかったため送れなかったという。
米軍による爆撃で死に直面する日も多かった。チュさんは生前、「空襲警報が鳴ると工場を抜け出して一晩中泣きながら隠れていて、夜が明けたら寮に戻ったりした」、「会社はご飯を食べさせてまた働かせた」と述べている。
チュさんがようやく帰郷できたのは解放後だった。帰郷後も強制労働の傷から完全に自由になれなかったチュさんは、不二越で友人と身の上を嘆きながら歌った歌が忘れられないという。
「(日本語で)不二越よいと誰が言った/桜の木陰の木の下で/人事の木村が言ったそうだ/私はまんまとみまされた(だまされた)」
チュさんは個人の損害賠償請求権が残っているとした2018年の最高裁全員合議体の判決を知り、2019年4月に日帝強制動員市民の会と民主社会のための弁護士会光州(クァンジュ)全羅南道支部の助力を得て、不二越に損害賠償を求めて光州地方裁判所に提訴した。しかし、日本政府の非協力で訴状の送達がきちんと行われなかった。チュさんは5年間も裁判の開始を待っていた。2022年7月のハンギョレとのインタビューで、チュさんは次のように語っている。
「幼い頃に行って苦労したからいくばくかでも補償してくれたらと思うんだけど、くれないって言うんだからどうやって受け取るの。死ぬ前に少しでも補償してもらえたら、食べたいものを食べて、着たいもの着て死ねたら、それ以上望むことはない」
遺族は4男2女。葬儀は全羅南道の羅州斎場。出棺は19日午前10時。