歴史学者のジョン・コネリー(カリフォルニア大学バークレー校の欧州史の教授)は、分厚い『東欧史』(原題:From Peoples into Nations: A History of Eastern Europe)で、「バルト海からアドリア海と黒海にいたる地域に位置する国家」の劇的かつ躍動的な歴史を描いた。東側はロシアやトルコなどと、西側はプロイセンやオーストリア、ドイツなどと接するこの中東欧地域は、「地球上の他のどの地域よりも、良くも悪くも、20世紀に最も多くの事件が起きたところ」だと言える。1800年頃の地図と2000年頃の地図を比較してみると、「単純な地図から複雑な地図へ、1つの小さな国家と3つの大きな多民族国家が20を超える民族国家へと変わったこと」が一目でわかる。著者は、このように複雑なこの地域の歴史から発見できる最も強烈なことは「民族主義」だと指摘する。「世界の他のどの地域でも、民族を国家に合わせるために、このような頻繁かつ急進的で暴力的な国境の変化は起きなかった」
欧州全域で自由主義に対する要求が噴出した「1848年革命」は、それまで「存在するものとして想像することもできなかった民族の分裂」を示した。すべての新しい民族が独立を得ることになれば、帝国と王国はこれ以上存続できないため、ハプスブルク帝国は変わらず君主制を握り続けていた。例えば、ハンガリーのマジャール支配勢力は「マジャール」中心の社会統合を推進したが、クロアチア人、セルビア人、ルーマニア人などハンガリー内の様々な少数民族集団は、自分たちの「自治」のため、むしろハプスブルク帝国を支持した。土着のチェコ人と支配層のドイツ人が入り交じるボヘミアでは、農民と小都市出身者を中心にチェコ人の実質的な自治が推進された。中東欧の南側と北端であるセルビアとポーランドでは、軍事的な方法を中心に帝国に対抗する民族主義を追求した。
1878年、欧州列強はベルリンに集まり、ブルガリア・モンテネグロ・ルーマニア・セルビアの4カ国を創設し、国境、憲法、主権、さらには市民の資格まで決めるに至った。この「ベルリン会議」は、「少数民族保護」という20世紀の原則を提示したと評価できるが、本当の問題は、むしろ「答えより疑問がより多かった」ことだ。例えば、「半分だけ完成された民族国家」のセルビアは、汎スラブ主義を具現化する「大セルビア」へと進むことを望んだ。ブルガリアも同じく、国家創設の過程で喪失した領土を取り戻そうとした。「民族的自我が完全に芽吹くためには『他者』が必要」であり、民族問題は「人種」の問題と緊密に結びつき、新たな種類の「人種民族主義」に向かった。
このように曲がりくねった東欧の人種民族主義について、著者が指摘する本質は「歴史から消えてしまうのではないかという恐れ、人種虐殺にあうのではないかという恐れ」、すなわち「絶滅」の脅威だ。「歴史から消えてしまうのではないかという恐れは、英国、フランス、イタリア、スペイン、ロシア、スカンジナビア、低地諸国(オランダ・ベルギー・ルクセンブルグ)からは見いだせないことだった」。民族主義の力は「臨時的なものではなく状況的」、つまり、特定の人種が自らを想像し生み出すようにするまで追い込む「認識的な脅威のレベル」にかかっているということだ。ならば、なぜ特に東欧地域でこうした絶滅の恐怖が発達したのだろうか。一部では、中東欧は「辺境」であり、アジアにより近いためだとされる。しかし、著者はむしろ反対に、そこが「中間空間」であり「境界のない場所」だという特性を強調する。人や思想などの移動が絶えず続く場所であるため、それだけ絶えず他の地域の影響を受けたり与えたりせざるをえないということだ。