「ドアはそーっと」
慶尚南道昌原市鎮海区(チャンウォンシ・チンヘグ)のマンションの一室の玄関に、このようなメモが貼ってある。この家には退職した消防士のチョン・ボンシクさん(60)が住んでいる。チョン・ボンシクさんはうつ病と発作性心房細動の症状がある。不整脈の一種で、心臓の上部に当たる心房は正常なら1分間に60~80回ほど鼓動するが、「突然1分に500~600回」ぶるぶると震える疾患だ。小さな刺激でもびっくり仰天し、時には気絶することまであるほど敏感になる。玄関のメモも、誰かがドアを強く閉めると騒音の刺激が発生するので貼っておいたものだ。病気のため、チョンさんは薬効の強い睡眠薬を飲んでも1日に1~2時間しか眠れない。「横になっていて急に起き上がるとめまいがして倒れたりするんです。どんなにしんどくても横になっていられません。寝る時も座って寝るために、もたれかかれる病院用のベッドをわざわざ買ったんですよ」
「2002年4月15日」
あの日、嶺南(ヨンナム=慶尚道)地域一帯には大雨が降っていた。鎮海消防署大興(テフン)消防派出所に所属する救急隊員だったチョンさん(当時39歳)はその日、晋州(チンジュ)で行われる予定だった消防技術コンテストの準備に熱中していた。全国から消防士が集まって救急、救助、火災鎮圧などの実力を競う大会だ。ところが突然、出動指示が下された。急いで出動車両に乗ったところで初めて行き先が分かった。「金海(キムヘ)に行く。飛行機が落ちた」
その日午前9時40分に乗客と乗員166人を乗せて中国の北京国際空港を出発した中国国際航空公司の航空機129便は、大雨と霧の中で金海国際空港への着陸を試みたが、午前11時21分ごろ、空港の北4.6キロにあるトッテ山中腹の標高204メートル地点に墜落した。チョンさんをはじめとする救急隊員が現場に到着すると、客室を覆っていた航空機の外装材は紙のようにくしゃくしゃになっており、燃料タンクから燃料が流れ出して胴体が爆発し、ちぎれて3つになっていた。爆発と墜落の衝撃で一部の遺体は四方に飛び散ったり裂けたりしていた。シートベルトを締めた状態で燃えている遺体もあった。
その遺体を収拾する任務がチョンさんに与えられた。その日、山には消防、軍、警察から1500人あまりが投入された。その時からトッテ山中腹の標高204メートル地点と麓を何度行き来したか、チョンさんは覚えていない。雨でぬかるんだ山道で何度転んだのかも覚えていない。しかし、あの日見た光景は今もはっきりと記憶に残り、チョンさんを苦しめる。
ぬかるみを転がるように山をさまよい、道具もなしに素手で地面をほじくり返した。そのようにして事故当日から1カ月の間、チョンさんは7回もトッテ山に出動し、129人の遺体収拾作業にかかわった。しかし、家族の切実な願いも虚しく、行方不明者の中に生存者は1人もいなかった。「麓では行方不明者の家族が、せめて遺留物のひとつでもいいからと待ちわびていました。引き裂かれた遺体を一つ一つ探して、それをすべて収拾してきました。その人たちがみんな夢に現れるんです。指を拾えばその持ち主が現れるという具合です」
大規模災害の現場だけではない。チョンさんは1992年、蔚山(ウルサン)で消防車の運転員として働きはじめ、鎮海に移った後の1995年からは救急隊員を務めた。救急隊員になって半年ほどたったころ、鎮海の鉄道の駅の近くで三輪車に乗っていた3、4歳の子どもがダンプにはねられて死亡するという事故が発生した。その小さな体はバラバラになっていて、チョンさんは泣きながらその遺体を「掃いて袋詰めし」、病院に移送した。「その子が『パパ、パパ』と言いながら走ってきて私に抱きつく。そういった夢を見ます」
このような記憶に起因する悪夢が心的外傷後ストレス障害(PTSD)だということは、後になって知った。チョンさんが2013年に受けた精神健康医学科外来での最初の診療記録には「混合型うつ病および不安障害」という診断名が記されている。
現場経験の長い消防士ほど、忘れられない惨事の記憶によってPTSDに苦しむようになる。災害現場で倒れていった市民を「救えなかった」という罪悪感と共に、ひどい状態の遺体を収拾したことで生じた心理的苦痛が心に刻印されるのだ。ハンギョレが消防庁から提供を受けたここ3年間(2020年7月~2023年6月)の消防士の公務上の疾病経緯調査書を分析したところ、少なくとも32人がPTSDで公務上の療養(公傷)を申請していた(共に民主党のオ・ヨンファン議員室)。2018年から今年6月までに自ら命を絶った消防公務員も77人にのぼる。(2に続く)