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19歳で拉致され、韓国で67年…ようやく国家賠償が認められたものの(2)

登録:2023-03-04 04:04 修正:2023-03-04 09:14
キム・ジュサムさん(86、右)が2023年2月20日、京畿道高陽市の自宅で妻のイ・スンジャさんと苦難の人生について語っている//ハンギョレ新聞社

(1のつづき)

夜になると密かに金網をつかんで泣いた

 当時、その部隊の兵士として服務していたLさんは、2021年の真実和解委によるキム・ジュサム拉致事件の真実究明調査の際、参考人として次のように供述している。

 「1956年の秋ごろ、部隊の食堂で初めて見る人がひとりでご飯を食べていた。軍人らしくなかったので聞くと、諜報隊が北朝鮮から拉致してきたキム・ジュサムだった。当時、昼間は取り調べを受けていて、夕方に入って来て寝る時だけ内務班と一緒だった。…夜になるとこっそり抜け出して金網をつかんで泣く姿を何度も見たので、気の毒で可哀想で(自分が)除隊した後も面倒を見てやった」

 このように5年ほど部隊に拘束されていたキムさんは、1961年に突如として部隊から出された。ここで経験したことは絶対に口外するなという脅しとともに。天涯孤独の身で韓国社会についての知識や情報など全くないうえ、無一文だった。居住地の住所は黄海道龍淵郡からソウル九老区梧柳洞になった。諜報部隊の近くに住んでいた輸送隊の文官が、自宅の住所でキムさんの臨時戸籍を作ってくれたのだ。

 キムさんは訳の分からぬままに大韓民国の国民となったが、大韓民国のどこにもキムさんの居場所はなかった。見知らぬ韓国の地では、ましな仕事ひとつ見つけられなかった。管轄の警察署の担当警察官に日常的な動態を監視された。

 1963年、キムさんは部隊にいた人物の紹介で、自身も黄海道からの避難民であるイ・スンジャさんと結婚した。知り合いが貸してくれた借家で新婚生活を始めた。「部隊を出てからは近くのドルコひげそりの工場で少し働きました。学がないからいちばん下層の仕事ばかり。またロッテガムの工場を辞めてからは北漢山(プッカンサン)に木を植える会社。造園。モクト(棒に結んだ縄に丸太をくくり付け、棒を肩に担いで運ぶ仕事)をしたんだけど、肩がパンパンに腫れて痛かった」

拉致されて67年にして国から賠償を受けることになったキム・ジュサムさん(86)が2023年2月20日、京畿道高陽市の自宅で妻のイ・スンジャさんとポーズを取っている。壁には夫婦の若い頃の写真と、娘(59)が模写したゴッホのひまわりがかかっている//ハンギョレ新聞社

部隊から捨てられた後はビニールハウスで数十年

 夫婦はこうしてソウル北西部の郊外、京畿道高陽市(コヤンシ)に新しい生活の拠点を置いた。妻のイさんは、その時から数十年間はビニールハウスで暮らしていたという。「ハウスの中にバラや、豆もやしやいろんなものを植えて、売って。毎日ビニールハウスで暮らしていた。息子が結婚する時もハウスで(結婚式を)した。(高陽市)徳耳洞(トギドン)、官山洞(クァンサンドン)、碧蹄(ビョクチェ)…、これらは今は開発されてるけど、あの時は全部農業するところだったわけ。他人の土地で暮らしてたから、引っ越しも20回以上しました。私も子どもたち(1女1男)を産んでからも石鹸売ったり、月賦セールスしたり、豆もやし栽培まで、あらゆることをやりました。人にお金を借りることもできないし、2人でこれまで死ぬほど苦労したんです。今この永久賃貸マンションに来てちょうど20年になります」

 イさんは「食べていくのもやっとで、子どもたちにきちんと教育を受けさせてやれなかったのがとても残念だ」と語った。娘は絵がとてもうまかったが、能力を生かすためのサポートはとても考えられなかったという。居間の壁には娘が模写したフィンセント・ファン・ゴッホの「ひまわり」が、夫婦の若い頃の写真と並べて飾ってあった。イさんはふと思い出したように、ちょっと福祉館に行ってくると言って立ち上がった。「毎日パンをくれる時間があるんでね。もらってこなくちゃ。ありがたいですよね」。夫婦は基礎生活受給者だ。

 キムさんは勝訴を聞き「すごく遅かったが、良かった」と語った。「借金がちょっとあるんだけど、賠償金が出たらまず借金を返して。子どもたちも借金があるので分けてやって。世話になった人もいる。昼飯をおごってもらったり、タバコを1カートン買ってくれたりした人たちがいるんだけど、その人たちにもお返しをしないと。そうやって生きていかなきゃ、ハハハ」。妻のイさんは「今まで苦労ばっかりだったけど、ようやく今、遅まきながら(損害賠償を命じる判決が)出たので気分は良かったんだけど、この人が北朝鮮に置いてきた弟たちにも会いたいし、そういうのが気の毒でね。そういうことがあると夫は眠れないんです」

 夫婦は毎年、旧正月と秋夕(チュソク、陰暦8月15日の節句)になると、京畿道坡州市(パジュシ)の臨津閣(イムジンガク)を訪ねる。せめて失郷民家族合同の祭祀に参加して、虚しい気持ちを慰める。2019年の春には、拉致されて以来初めて妻、娘(59)、孫たちと白ニョン島(ペンニョンド)を旅した。胸が痛むので行きたくなかった場所だ。「うちの子たちが、私が死ぬ前に見物に行こうと言うので。白ニョン島に行ってみたら、私の家があったところも全部わかった。とても近かったんです」

キム・ジュサムさん(86)夫婦は毎年、旧正月と秋夕には、京畿道坡州市の臨津閣で行われる失郷民家族合同祭祀で、虚しい気持ちを慰めると語った//ハンギョレ新聞社

「国に控訴されたり慰謝料を奪われたりするのが心配」

 2022年8月、真実和解委はキムさんが申請した真実究明事件について「国の拉致および労役行為などの違法または顕著に不当な公権力の行使による重大な人権侵害事件(…)、憲法に保障された身体の自由、居住移転の自由、出国権および帰還権を侵害した事件」だとする調査結果を発表した。国の謝罪、キムさんの被害と名誉の回復、北朝鮮の家族との再会の機会の提供も勧告した。今回の判決は真実和解委の決定を法的に確認し、裏付けたものだ。

 2023年2月24日、真実和解委は文書で立場を表明した。それによると「今回の判決は、国によっては究明されていなかった事件の真実を世に初めて明らかにすることによって過去の国家暴力の被害者の権利救済に寄与したという点で、過去事の整理と真実糾明の重要性が確認された」と強調した。真実和解委はまた「被害者が高齢であることを考慮し、名誉回復や家族との再会の機会提供など、残された勧告措置も早めに履行されることを」求めた。

 キムさんの息子(56)は、「父は、国が判決を不服として控訴したり、賠償金を奪ったりするのではないかと心配している」と言った。一審判決から1週間、真実和解委員会の決定と勧告から6カ月を経ても、国はキムさんに謝罪どころか、連絡すらしていない。インタビューを終えたキムさんは、ゆっくりとコートを着て足を引きずりながら家を出た。「福祉館に行く」と言ったものの、立ち止まってタバコに火をつけた。その日もキムさんはなかなか眠れずに、一晩中寝返りを打っていたことだろう。

文/チョ・イルチュン先任記者、写真/キム・ジンス先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/1081401.html韓国語原文入力:2023-02-27 15:52
訳D.K

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