<梨泰院(イテウォン)惨事の犠牲者と遺族の物語をシリーズで掲載します。ハンギョレと「ハンギョレ21」は、私たちが守るべきだった一人ひとりの人生がどれほど大切か、それが消え去った家族の人生はどうなったのか、遺族が知りたい真実とは何なのかを記録する予定です。>
「とっても楽しい。こんなに幸せでもいいのかと思うほど幸せ」
27歳で大学生になったリュヨンさんは、母親のチョン・ミジンさん(52)が大学生活の様子を尋ねると、いつもこう答えた。社交的で、人の役に立つことを幸せと考えるリュヨンさんにとって、大学祭やかわいい後輩と仲良く過ごす日常は、楽しいことでいっぱいだった。20代前半から半ばにかけて准看護師として働くことで適性を確信し、期待に胸を膨らませて足を踏み入れた看護大学だった。リュヨンさんにとって2022年は、輝かしい出発の年だった。
________
木浦から、釜山から、絶えずメッセージ
故郷の釜山(プサン)を離れ、全羅南道木浦(モッポ)で大学生活をはじめた娘だったが、家族はしっかりしているリュヨンさんを心配してはいなかった。釜山の病院で准看護師として働いていた頃、リュヨンさんは母親の働く美容院にときどき遊びに来た。美容院で近所の人たちの健康状態を見てあげたり、おしゃべりをしたりした。伯母さんたちとも友達のように過ごした。夜間大学に通う伯母のチョン・ファジンさん(55)には、「一緒に大学に通っているから、私たちは同じMZ世代」だと冗談を言い、どちらがより良い成績を取るかを賭けたりもしていた。
リュヨンさんは愛嬌たっぷりの娘だった。木浦からも、釜山にいるミジンさんが寂しがっているのではないかと心配してショートメッセージを送り、よくおしゃべりを楽しんだ。「運転免許の筆記試験に合格したんだけど、とても緊張した」という些細な話や、祭りで遊んでいたら転んで膝を怪我した写真を送ってよこして「ずっこけるのもお母さんに似たみたい」という冗談交じりのおしゃべりもよくした。
父親のノ・ヒョニョンさん(59)の目元のしわの施術を予約してあげたり、ミジンさんが素敵だと言っていた服は忘れずにプレゼントしたりする孝行娘でもあった。「髪を染めてよ、お母さん。金髪にしたい。(お母さんが)してくれる?」 2022年10月27日にリュヨンさんから母親に送られてきたショートメッセージだ。これが最後のショートメッセージになるとは思わなかった。こうして、来週釜山に帰るという約束がリュヨンさんの最後の連絡となった。
ヒョニョンさんとミジンさんは、リュヨンさんが梨泰院に遊びに行ったことを知らなかった。10月29日の惨事翌日の午前8時30分ごろ、多くの人が梨泰院で起きた事故で亡くなったというニュースを見た。「大変だ、と思いながら見ていたんです。自分の娘が行ったことは知りませんでした。念のため(リュヨンさんに)電話したんですけど出ませんでした。遅くまで寝ているのかなと思って、ショートメッセージで『梨泰院には行っていないよね』と送ったんですけど、また返事がありませんでした」。母親のミジンさんの悪夢がはじまったのはその時からだった。電話し続けていたら、リュヨンさんの携帯電話に龍山(ヨンサン)警察署の関係者が出た。警察は、リュヨンさんはどこにいるのか分からない、まず失踪届を出すようにと言った。
リュヨンさんを探すために、家族はしばらくさ迷わなければならなかった。リュヨンさんの叔母のチョン・スクチンさん(48)は、すべての病院に電話した。京畿道平沢市(ピョンテクシ)の翰林大学病院にいるという警察の話を聞いて行ってみたものの、リュヨンさんはいなかった。病院の関係者の冷ややかな反応に「梨泰院で事故が起きて(家族を)探して歩き回っているのに、なぜそんなことを言うのか」と怒ると、ようやくしばらく待ってみるように言われ、安養(アニャン)セム病院を教えられた。
________
「異議を申し立てれば葬儀は行えない」という病院
リュヨンさんはその病院に横たわっていた。顔だけを見せ、服が脱がされた体は布で包まれたままだった。「確認した時、自分の子だとは思いませんでした。信じられなかったし。でもタトゥーを見たらあの子でした。目をわずかに開けて私を見ているようでした。ただへたり込んでしまいました」(母親のチョン・ミジンさん)。家族は、なぜ警察はリュヨンさんの状況をきちんと教えてくれず、失踪届を出せと言っただけだったのか、娘を探してなぜいくつもの病院を転々としなければならなかったのか、いまだに理解できないと語る。
病院は、事件を具体的に知りたければ異議を申し立てるように言い、しかしそれをすれば葬儀は行えないと説明した。煮えくり返る思いを抑えて悩んだ家族は、これ以上冷たい冷凍室にリュヨンさんを置いておかないことを選択した。
「私たちの欲だと思いました。夜に出向いて陳述書を書いて確認し、異議はないと言ったから葬儀が行われたんです。早くしなければならないと言われたから決めたのですが、(葬儀が)終わって考えてみると、理解できないことがたくさんありました」
リュヨンさんの葬儀には多くの人が訪れた。友人だけでも600人近くやって来た。リュヨンさんの死を受け入れられない友人たちは、葬儀会場でもなかなか席を立てずにいた。2022年11月11日、リュヨンさんの眠る追悼公園には「ペペロ」というお菓子の箱がたくさん置かれた。この世を去った友に対する気持ちの込もった贈り物だった。
「リュヨンはカラオケに行っても必ず愛国歌を歌っていました。あの子なりに愛国心があって、周りがあきれたように笑っても一生懸命歌っていました。友達と行っても歌っていると言って映像を撮って送ってくれました」。だが家族は、そのようなリュヨンさんに対して果たして国は存在したのかと問いかける。伯母のファジンさんは「国に問いたいことを多く抱えているが、報道されるのは遺族を嘆かせることばかりなのが悔しい」と話した。
事故が起きて2カ月近くたってようやく、リュヨンさんがミジンさんの夢に現れた。しゃれた二階建ての家でミジンさんを迎え「なぜここに来たの」と尋ねた。家に帰ろうと言うと、やることがあるからお母さんは先に帰ってと言った。ミジンさんは今もリュヨンさんと交わした最後のショートメッセージを何度も眺める。「一言も言わずに逝ってしまいました。こんなに母さんに何でも話す子が、なぜ梨泰院に行った時には言わなかったんでしょうね」
________
スプーン一つに至るまで荷物をすっかり積んで
ヒョニョンさんは娘を見送った後、娘の写真とショートメッセージを集めてアルバムを作った。「愛する我が娘を思い、記憶をとどめる」と記された表紙をめくると、ポーズを決めたリュヨンさんの写真や、中学生時代に路上で拾ったネコを飼うことをミジンさんに反対され、受け入れ先を探すために一人で練習した文言、「いつもありがとう、大好き」「卒業してお金をたくさんあげる」と両親に送った頼もしいショートメッセージなどが載っている。
ミジンさんとヒョニョンさんは、木浦に住んでいたリュヨンさんの荷物はスプーン一つすらも捨てられず、すべてを車に積んで持ち帰った。「1トントラックで行ったのに全部載せられませんでした、服もカバンも多くて。うちの娘は本当にカルロンジェンイ(「おしゃれな人」の慶尚道方言)だったんですよ」。ミジンさんはリュヨンさんの写真を見せながら思い出に笑みを浮かべ、最後は涙ぐんだ。