『帝国大学の朝鮮人』
チョン・ジョンヒョン著/ヒューマニスト(2019)
『帝国大学の朝鮮人』の読み方は様々だろうが、最近起きた二つの事件を意識して読むならば、思索が倍加する経験をするだろう。一つは、『反日種族主義』をめぐる親日派論争で、もう一つはチョ・グク法務部長官をめぐって広がるいわゆる586世代談論、すなわちチョ・グク守護とその反対の主張、あわせてその原因となった韓国社会の支配エリート再生産構造だ。まず、「親日派」という単語が非難の意味で使われた結果、韓国と親しい外国人を指して言う時も「親韓派」という単語の代わりに「知韓派」と言うほどに敬遠される単語だった。ところで、最近は自ら「親日派」を自称する韓国人が出没している。このように敏感な時期に出版されたこの本は、日帝治下で帝国最高のエリート集団養成所であった帝国大学で朝鮮人の若者たちがなぜ留学に行き、そこで誰に何を学んで帰ってきたのか、日帝強制占領期間と解放以後の人生の行跡を探る。
開化の必要性を痛感した朝鮮政府は、日本との修交が成立した1876年以後から日本に多くの留学生を送った。修交以後、日本で学んだ留学生が朝鮮の近代化に寄与した側面もあった。1884年、金玉均(キム・オクキュン)が甲申政変を起こした時、日本陸軍戸山学校で軍事訓練を受けた朝鮮人留学生を動員したように、彼らは重要な時期の度に歴史の舞台に呼ばれて上がった。孫秉煕(ソン・ビョンヒ)の日本亡命当時にも、数十人の留学生を連れていったし、日帝の強制支配が始まる直前の国費日本留学生の中には崔南善(チェ・ナムソン)もいた。日帝強制占領期間に入ると、日本留学生は一層増加した。日帝治下で植民地本国から留学することは、効果的な身分上昇を保証したが、同時にどうすることもできない二等国民「朝鮮人」という事実を確認する時間でもあった。
1910年代初めには約500人しかいなかった日本留学生の数は、1940年代初めには約3万人に大きく増えた。この時期の留学生が日本だけを選択したわけではなかった。尹致昊(ユン・チホ)と兪吉濬(ユ・キルジュン)をはじめ、李承晩(イ・スンマン)、梁柱三(ヤン・ジュサム)、白樂濬(ペク・ナクチュン)、韓景職(ハン・キョンジク)、趙炳玉(チョ・ビョンオク)、金活蘭(キム・ファルラン)をはじめ多くの人々は米国に留学した。鄭錫海(チョン・ソクヘ)、金法麟(キム・ボムニン)、李廷燮(イ・ジョンソプ)らはフランス、白性郁(ペク・ソンウク)、安浩相(アン・ホサン)、金載元(キム・ジェウォン)、都宥浩(ト・ユホ)らはドイツを選択した。留学生たちは日帝時期はもちろん、解放前後に韓国と北朝鮮の建国過程に深く関与し、今日の体制を作るうえで大きな影響を及ぼした人物だ。だが、まだこのことに対する研究は不十分な状況だ。『帝国大学の朝鮮人』は、その研究の開始を知らせるという点で意味がある。序文であらかじめ明らかにしているように、この本は留学生全体を扱ってはいない。日本本土の帝国大学7校に留学した植民地朝鮮の留学生千人余りがその対象だ。彼らはその量や質という側面で大変重要な役割を遂行した。
「国籍は変えられても学籍は変えられない」という言葉があるように、帝国大学出身留学生たちはエリートとしての巨大な自負心を持った。こうした自負心と同窓意識は、時に民族と階級を跳び越えた。そうした意味で、この本の最も印象的な部分は、親日派や独立闘士として活動した留学生個人の歴史よりも「同じ年頃の集団の中でも突出した少年だけが隔離された時空間に集まって、未来のリーダーになるのだと激励を受けて生活すればどうなるだろうか?」と問いかける部分だった。このような条件と環境は「選民意識を持った特権的集団を形成」させ、彼らは場合によって思想と信念を変えながらも「自分たちが国民を指導するという内的一貫性」から抜け出したことはなかった。私たちの社会は、どんなエリートを育てているのか。自らに問わずにはいられない。