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平壌妓生の頭にのせた新羅金冠が誤って復元され80年間も展示された理由は?

登録:2015-02-06 00:50 修正:2015-02-07 21:05
現在の瑞鳳塚新羅金冠。 韓国国立中央博物館提供。 //ハンギョレ新聞社

 新羅金冠の代表的傑作の一つである慶州瑞鳳塚(ソボンチョン)出土金冠が、1926年に出土した当時とは姿が異なり誤って修理されていた事実が確認された。 国立中央博物館は日帝強制占領期間である1926年にスウェーデンのグスタフ皇太子(後にグスタフ6世)が発掘に参加したことで知られる慶州路西(ノソ)洞の新羅古墳である瑞鳳塚の調査報告書(『慶州瑞鳳塚1』(遺物篇))を88年ぶりに発刊した。日帝強制占領期間の資料調査報告事業の13番目の成果物として出されたこの報告書で、博物館側は現在まで展示されてきた金冠が発掘当時の原形を失い、誤って復元されていたことが分かったと明らかにし注目を集めている。

現在の瑞鳳塚新羅金冠。 韓国国立中央博物館提供。 //ハンギョレ新聞社

 瑞鳳塚出土遺物のうち最も有名な金冠は、中央に三つの鳳凰装飾がついている。このような特徴のために他の新羅金冠とは明確に区別される。 博物館側は報告書作成のために金冠を精密再調査する過程で、この鳳凰装飾にまつわる重要な形態上の誤りを発見したと報告書で言及している。発掘後に朝鮮総督府が出土金冠を復元組み立てする過程で、金冠本体の大輪(金冠の頭が触れる下部の丸い枠に該当する部分)についていた勾玉装飾4個を外し、この装飾を固定していた継手穴に金冠の鳳凰装飾を支える十字型金版をつなぐ金糸を無理矢理固定させたということだ。 

 説明は複雑だが、実際に写真を見れば簡単な誤りだ。鳳凰装飾が上についた十字型金板は元々打ち込まれた大輪の金属釘の場所の代わりに、その横の勾玉があった穴に金糸などで無理矢理固定されたために、全体の形が歪み、原形とはかなり変わってしまったという分析だ。 特に金冠の正面右部分についた十字型金板の一分岐は内側についた他の三分岐とは異なり外側に金糸で結びつけられており、一見してもぎこちない感じがする。 パク・チニル学芸研究士は「発掘後の保管過程で何らかの理由で金冠の一部が毀損される曲折があり、その後の組み立て修理の過程でこのような誤りが生じたものと見られる」と推定した。日帝強制占領期間の誤った修理から80年を越えても矯正されず、現在の形が原形として固定化する可能性があるので、早く再復元作業に着手すべきだと博物館側は助言した。

台輪固定部。 韓国国立中央博物館提供。 //ハンギョレ新聞社

 路西里129号墳とも呼ばれる慶州瑞鳳塚は、現在の慶州大陵苑(テルンウォン)付近に場所だけが残っているが、発掘と保管にまつわる興味深い話が多い。 調査は1926年に朝鮮総督府博物館の研究員だった小泉顕夫により行われたが、純粋な学術調査ではなかった。 慶東鉄道路線(現在の東海南部線)の慶州駅舎を作るために必要な土砂を確保するため地面を掘っていて発見された遺跡であるためだった。当時朝鮮総督府の調査現場には日本と朝鮮を訪問中だったグスタフ皇太子が参加して、国際的な関心を集めた。 考古学に関心が高い皇太子が朝鮮に立ち寄り、旅行で訪れた慶州の地下からすごい古代遺物が発見されたというニュースを聞いて、彼が参加を懇請して皇太子の発掘が行われることになった。 グスタフ皇太子が発掘現場の中央で金冠など金製遺物を調べて直接発掘作業を始める場面を撮った数枚の写真が現在まで伝えられている。

1935年に撮影された平壌妓生 車綾波(チャルンパ) 。 //ハンギョレ新聞社

 一つの疑問が残る。発掘後の金冠の誤った組み立て復元を触発させた破損事件の実体は何だったのだろうか。手がかりがある。1926年出土当時の金冠写真と1934年に総督府が撮った金冠の写真には、国立中央博物館が指摘した鳳凰装飾金版の無理な組み立て痕跡は見られないという。現在の瑞鳳塚金冠は1939年に朝鮮総督府博物館本館品として登録されているが、当時はすでに金冠台輪の勾玉4個が金冠本体と離れて別に登録されたという記録が残っている。

 したがって金冠は1934年から39年までの間に何らかの事件が起きて、一部の装飾が外れるなどの破損が起きたと見られる。 興味深いことに、そのような推定に符合する有名な事件が一つ伝えられている。 26年に発掘を総括した朝鮮総督府研究員の小泉顕夫は、1934年に平壌府立博物館長として赴任する。その翌年の1935年、瑞鳳塚金冠を平壌に持って行き、平壌妓生の車綾波の頭にかぶせて記念写真を撮るという蛮行を犯す。彼の破廉恥な行為はまもなく露見し、翌年の1936年に朝鮮日報等により新聞紙面を通じて報道され世間の指弾を受けた。 小泉が当時特別な保護措置もせずに金冠を持って行き、平壌妓生の頭にかぶせた情況が当時の新聞記事などで確認できる。したがって問題になった金冠の破損はこの時に起きた可能性が高いと見える。 パク・チニル学芸士は「他の破損事件が起きた可能性も排除はできないが、勾玉が落ち鳳凰装飾板が落ちるほど深刻な破損状況は、小泉が平壌妓生に金冠をかぶせた事件の他には考えがたい」と話した。

『慶州瑞鳳塚1(遺物篇)』報告書表紙。 韓国国立中央博物館提供。//ハンギョレ新聞社

 小泉は瑞鳳塚に遺構と遺物に関する発掘報告書の刊行を先送りし、解放の翌年である1946年についに調査をまとめずに日本に戻ってしまう。 以後、瑞鳳塚遺物は報告書もなく金冠と一部の金属工芸品程度だけが大衆に知らされた状態で国立中央博物館の収蔵庫に保管されてきた。 国立中央博物館の学芸士が出土遺物と当時のガラス乾板写真などを中心に発掘から88年ぶりに遺物篇報告書作業を終えたのは、日帝強制占領期間の小泉の責任放棄に対する学問的懲罰であるわけだ。

 今回報告書には金冠をはじめとする573件の遺物の図面と写真が初めて集大成されて載せられた。 金冠をはじめとする金製品を詳細に調査して整理し、すべての金製品は純度分析を行いその結果を付録に収めている。 博物館は報告書の刊行を記念して「再び見る新羅古墳、瑞鳳塚」テーマ展を4~6月に開く予定だ。再来年以後に計画中の瑞鳳塚再発掘調査を終え次第、遺構篇の報告書も出す計画だという。

文ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/677165.html 韓国語原文入力:2015/02/05 22:24
訳J.S(2707字)

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