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【おい! 韓国社会】一度狂いが生じたらもう終わりか? /ペク・ヨンギョン

登録:2013-02-28 20:57 修正:2013-03-01 00:23
ペク・ヨンギョン放送通信大教授・文化人類学

 普通ジャン・バルジャンの受けた不当な扱いはパン一切れを盗んだ罪で19年間服役したことと言われている。 もちろん犯罪の内容に似合わぬ重い刑罰も不当なことには違いない。 しかし先日映画『レ・ミゼラブル』を見て、ジャン・バルジャンの受けなければならなかったまた別の不当な扱いの方が一層大きく迫ってきた。 ジャン・バルジャンは法が定めたとおり行く先々で仮釈放文書を提示しなければならなかったが、それを提示したあとは、働き口どころか鞭で打たれ追い出されて寝るところも得られなかった。 それならいっそのこと監獄から出してやらなければいい、いったいどうしろというのか。 一度の誤ちに対しすでに過度に償いをした後も、取り付く島のない社会のその非情さにぞっとした。

 ところで最近の学校暴力の学校生活記録簿記載を巡る論議を見れば、私たちの社会でも、心を入れ替えて新しい人生を生きようとするならマドレーヌ市長に変身したジャン・バルジャンのように初めから身元を洗濯してしまうなどしなければ不可能なのではないかという気さえする。 昨年教育科学技術部は学校暴力の加害者についてその処罰に関連した内容を学生簿に記載し5年間保管するようにさせ、これに従わない教員に対しては懲戒をするとして強行しようとしていたが、最近まで学生簿記載を拒否してきた京畿道(キョンギド)教育庁までが部分的に受け入れを決め、再び論議がおきている。

 このような措置が学校暴力の解決方案として有効性を持つかどうかはひとまず脇に置いてでも、何より憂慮されるのは、進学および就職において資料として活用される学生簿に加害と処罰の事実を登載することによって加害生徒に確実に不利益を与えようとするその思考そのものである。 最近学校暴力が深刻な問題として登場するようになった背景には、教育政策と社会および家庭のいろいろな問題をはじめとして様々な次元の問題が複合的に絡まっている。 実際に単に生徒個人の性格の問題ではないため、容易に解決されないことでもある。 にもかかわらず、まだ教育過程内にある生徒たちから将来の機会を剥奪することを解決策と言えようか?

 野球で言えばストライク一つでアウトにされることになる事情は、私たちの社会が高い地位にある人や持てる者に対して与えている限りない機会と比較すると、より一層理不尽なものとして迫ってくる。 最近の公職候補者を巡って続いた論議の中で、人々は冗談のように、子供が軍隊に行ってきたから、税金をきちんきちんと払っているから、国籍が一つしかないから、投機をやったことがないから、私は到底長官にはなれないという話をしている。 そのようにいちいち問題にしていたら誰が公職を引き受けるか。その地位まで上るのがどんなに大変なことか、それなのにそんな問題で人生全部を狂わせることはいけないといった言葉まで出てくる中で、彼らは普通の人が一つだけ犯しても無事では済まされないような“過ち”を重ねて犯しても無事などころか高位職にも上る神業を見せてくれた。 だから私たちの社会では、再び始めることができる機会というのは持てる者の特権に過ぎず、普通の人にとっては人生はただ一度の彷徨や失敗で奈落に落ちることになる薄氷板となる。

 ジャンケンにも三回勝負があるというのに、成長していく世代を教育しながら烙印と懲戒を中心に置くというのは困る。 加害者にしても被害者にしても結局再び始めるほかないのが人生ではないか。 登校中のバスでは「友人が君の勉強を代わりにしてくれるのか、友情なんかを求めていては人生やり直しは出来ないのだ」といった私教育業者の脅迫広告を見せられ、そのバスに乗って到着した学校では挫折と失敗を経験した生徒たちが再び始めるのに助力どころか足かせをはめられるのが現実だ。 力ある人々が一度のミスで地位と名誉を失うことについては残念がりながら、誰かがそれよりずっと重要な“再び始める機会”を永遠に失うことに対しては無感覚であっていいのか。 とにかく、誰にであれワン ストライクでアウトにさせるというのはひどいではないか。

ペク・ヨンギョン放送通信大教授・文化人類学

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/575819.html 韓国語原文入力:2013/02/27 19:53
訳A.K(1857字)

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