本文に移動

[朴露子ハンギョレブログより] 病中断想

登録:2013-02-10 14:19
朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授

 私は一昨日 急性腰痛でしばらく救急病院に入院していました。今も腰痛のせいで、座ってのパソコン作業は辛いのですが、入院していた時に考えた断片的なことの一部を書いてみたいと思います。いきなり激痛が走り、すぐに救急車で運ばれていったため、本を持参することさえできず、本を読めない状態でただ横になってひたすら物思いにふけっておりましたが、その一部は今も覚えています。

 私は自分の学問的な職業として思想史をやっています。主に開化期と日帝時代を扱っておりますが、つくづくこれでよかったなと思ったりします。あの時代は思想というものは明らかでした。そして、「思想」はある体系的な世界観を意味しており、その「思想」の持ち主たちは少なくとも自分たちの思想に従って生きようと努めていました。共産主義者の金台俊(キム・テジュン、1905~1949)先生は死に物狂いで毛沢東主席のいらっしゃる延安に脱出し、社民主義者の呂運亨(ヨ・ウニョン、1886~1947)は少なくとも日帝との妥協を拒否し建国準備委員会を準備しており、非妥協的な民族主義者であるとともに仏教的社会主義者であった韓竜雲(ハン・ヨンウン、1879~1944)も総督府との妥協を拒否し栄養失調で亡くなり、帝国型民族主義者の李光洙(イ・グァンス、1892~1950)は朝鮮人たちも偉大なる大日本帝国の構成員として支那の上に君臨しうるよう朝鮮魂と大和魂の一体を唱え、……。中には私の好きな行為者ととても好きになれない行為者たちがいるものの、とにかくその思想は体系的で思想と行動の関係が明らかであるため、勉強するのが面白いのです。他の人もそうなのかは知りませんが、少なくとも私にはですね。

 では、今は果してどうでしょう?「思想」、「思想家」と言えるものは今なおあるのでしょうか?おそらく公論の場の「周辺部」には相変らずあるようです。たとえば、進歩新党、「タハムケ(All Together)」、労建推ないし社労連の活動家や論客、理論家たちに体系的な世界認識(思想)があり、またその認識による行動パターンも明らかです。趙甲済(チョ・ガプジェ、1945~)や梁東安(ヤン・ドンアン)は韓国型ファシストと呼ぶことができますが、とにかく彼らにも極めて明確な(?)「思想」があることは事実です。しかし、これは公論の場の周辺部での話です。公論の場の「中心」の状況は、これとはあまりにも違います。韓国の大統領たちの中では「思想」を持った最後の人は金大中(キム・デジュン、1925~2009)でした。新自由主義を全面的に受け入れたなどの罪はあったものの、彼には確かに統一の夢、「統一思想」と言えるものはあったようです。それなりの自由主義的な思想も確かに持っていました。しかし、盧武鉉(ノ・ムヒョン、1946~2009)からは「思想」を見出すのが困難です。労働者たちの焼身自殺に対し「今が焼身で立ち向かう時代なのか」というふうに応じた元労働弁護士、「反米が何だ」からイラク派兵までの偉大なる道(?)を歩んできた自主派たちのヒーロー?盧武鉉には、たとえば民主主義に対するある「通念」はあったとはいえ、「思想」といえるほどのものはありませんでした。李明博にいたっては「思想」など取り上げるまでもないことであり、朴槿惠(パク・クネ、1952~)には政治工学はあっても、これといった「思想」はありません。年寄りに国家主義的な演説をし、若者たちにどうせ守れない「民生、福祉」の約束をし、……。彼女は政治工学の達人ですが、「思想」とは無縁です。若い頃、頭に刷り込まれた「滅私奉公」や「体力は国力」、「社会総和」、「有備無患」などといった朴正煕時代の「名言」を除けば、彼女には「思想」どころか「理念」さえもありません。

 資本主義後期は「思想」の時代ではありません。資本主義後期は「冷笑」の時代です。実は冷笑は大韓民国の二つとない国是です。今はですね。「民族」や「国家」の解体を主張し、民族主義は反逆だと叫んだ有名知識人がその民族主義の化身である大韓民国という国家から大型プロジェクトを採択され、何の問題もなく国庫の大金を手に入れられるのがすなわち大韓民国です。人権弁護士からソウル市長に転職した(?)もう一人の「進歩知識人」がポスコとプルムウォンの社外理事を務めてもあまり取り沙汰されない所も大韓民国です。これは単に「言行一致」の問題に止まらず、まさしく「思想」そのものの問題です。穏健社会主義的傾向であった人が、たとえば新聞のコラムで企業人の「ノブレス・オブリージュ」を叫び、金持ちの「社会への貢献」を語れるのも大韓民国なればです。社会主義的な立場からすれば、企業活動の本質は余剰の搾取であり、余剰の搾取を専門とする人に「貢献」を言い出すのは牛耳読経以上の愚挙ですが、韓国では充分に可能な話です。何故なら、体系的なマルクス主義的世界観を持つこと自体が大韓民国で公論の場の周辺に追いやられることを意味するからです。そのため、追いやられたくない人々は、「社会的責任のある企業」をあえて見つけ出し、唱えられるだけの「中立」にならなければなりません。「中立」はまさに世にも楽な「無思想」を意味し、冷笑を意味します。今や「思想」は消え、知識業者たちがうまく包装して売りつける「知識商品」だけが残りました。

 それほどまでに大韓民国は豊かになり、「第1世界化」したわけです。もちろん、現代車の非正規労働者がそうなったのではなく、「知識商品」生産及び販売者たちのことです。韓国の専任教授の年収の購買力は、欧米圏の仲間に比べて高いだろうし、「教授」の受ける社会的「尊崇」の程度は比較対象になりうるところは世界中どこにもありません。そして貴族化した人々には「思想」はありません。問題は、「充足した監獄」の時代は永遠には続かないということです。輸出主導モデルの有効期間は既に終わっており、これから私たちを待っているのは漸次的で相対的な貧困化です。この貧困化は、特に両極化という状況の中で進行するはずなので、社会の「周辺」、社会の弱者層に多大な苦痛を強いることでしょう。その苦痛の中で私たちに新しい思想の挑戦は周辺からやってくるのではないでしょうか。結局、度重なる試練は鍛錬につながり、一つの突破口を見出すからです。

http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/55918 韓国語原文入力:2013/02/07 19:23
訳J.S(2700字)