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【寄稿】キム・グンテはイ・グナンを許さなかった / パン・ヒョンソク

登録:2012-12-20 08:34
パン・ヒョンソク小説家

 昨年冬、私はキム・グンテ前民主化運動青年連合(民青連)議長の人生を整理する記録担当者として呼び出された。 病床で苦痛をこらえていた彼の姿を思うと今でも涙が出る。 痛くてたまらないと、いっそ悲鳴でも上げてくれたなら、見守る人の心があれほどにつらくはなかっただろう。 彼は最後までこらえようと努め、こらえにこらえて亡くなった。 彼は永遠の陳述拒否に入ってしまい、私は叙事の主人公をなくした。 そうして一年近く、私は実名小説『彼らが私の名前を呼ぶ時』の執筆に没頭した。

 一周忌を前に出版にこぎつけ、彼に対する心の借りも少しは減らせたと思っていたところへ、『拷問技術者イ・グナンの告白』という本の出版記念会をマスコミを通じて知った。 出版記念会場に懸けられた横断幕は驚愕そのものだった。 「慶祝イ・グナン先生出版記念会」。 かつて自身の拷問行為を "芸術" と表現した人間らしく、イ・グナンはふてぶてしいことこの上ない口調で、自分はキム・グンテ議長に許されたと言った。 キム議長は話すことができないので、彼から直接聞いた話をここで明らかにしておかねばならない。

 キム・グンテ議長が刑務所に収監されていた彼に会ったのは事実だ。 しかしキム議長は、ひざまずき、悪かったと言って許しを請う彼を許すことはできなかった。 私がその理由を尋ねると、本心かどうか疑わしかったと答えた。 「疑わしかった」というキム・グンテの表現は一般的な語法に変えれば「全然そうでなかった」に該当するものだ。 本心ならば涙の一粒はこぼれるはずなのに、そうでなかったと言った。 キム・グンテ議長はイ・グナンを心から許したいと思っていたが、イ・グナンが心から自分の誤ちを反省していないため、許すことができなかったのだ。

 イ・グナンに会ってきてから、キム・グンテ議長は夜眠れなかった。 ひょっとして自分が偏狭なために彼を許すことができないのではないかと、長いこと悩み苦しんだと話した。 キム議長の悩みを聞いたある聖職者はこのように話した。許すことは神の役割であって、あなたの役割でない。 キム議長はその話を受け入れたと話した。 私は彼の話をこのように解釈した。 イ・グナンが本当に反省するならば許されるのであり、そうでないならば許されないのだ。 結局、許されるか許されないかは彼自身の責任だ。

 キム・グンテ議長はイ・グナンを許すと言おうと思えば言えた。 そうすれば彼は、敵を許す度量の大きな人物として修飾されることができただろう。 しかし、偽りで許しを請うているのを知りながらイ・グナンを許すことは自分自身を欺瞞する行為であるため、彼はそうすることができなかった。

映画『南営洞(ナミョンドン)1985』の一場面。 アウラピクチャース提供

 私はキム・グンテ議長が拷問に加担した8人のうちの一人を、後日、心から許したという事実を知っている。 イ・グナンとは違いキム議長に「本当に申し訳ない」と言い涙で謝ったその拷問者は、小説『彼らが私の名前を呼ぶ時』にも出てくる人物だ。 肩を震わせて泣く彼をキム議長ははっきりと許し、慰めた。 しかしこの事実もキム・グンテ議長は生前に口外しなかった。 彼は朴正熙と全斗煥につながる独裁政権の下で犠牲になった多くの人々を常に忘れなかった。

 「拷問で人生が破壊され家族を失った多くの人々が、依然として誰からも謝罪されないまま苦痛を受けている。 私が拷問に対し許すと言ったら、その人々はどうなるか。」

 独裁政権の犠牲になった最後のひとりが謝罪を受けて、拷問をほしいままにした野蛮勢力が二度と再びこの地に足場を作れない時代が来るまで、キム・グンテ議長は拷問を許すことができなかったのだ。 国民から大統領を選ぶ権利までも奪ってしまった朴正熙の娘は大統領選挙に出馬した。 朴正熙に対抗して10年間指名手配者の身分で生き、国民が大統領を選出する権利を取り戻すために戦ったキム・グンテは出馬できなかった。 キム・グンテを拷問したイ・グナンは投票する。 キム・グンテは投票できない。 悲しい。

パン・ヒョンソク小説家

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/565760.html 韓国語原文入力:2012/12/18 10:01
訳A.K(1838字)