5日、ネイバーなどのポータルには高木正雄と岡本実が人気検索語首位に浮上した。
朴正熙のもう一つの創氏改名 岡本実も検索語首位で4日選管委主催の公式大統領選候補TV討論会で言及された‘忠誠血書’と‘高木正雄’がインターネットで関心主題になった。
討論の翌日である5日午前10時現在のネイバーリアルタイム急上昇検索語では‘高木正雄’が1~2位を占めていて、別のポータルさいとであるダウムの初期画面の‘リアルタイム イシュー’でも‘高木正雄’は6位を占めている。
ポータルを利用する相当数の国民が前日の大統領選候補討論で言及された‘高木正雄’を気がかりに感じて、検索してみたことにともなう現象だ。
'高木正雄'が人気検索語1位に浮上し、朴正熙が高木正雄という日本名が韓国式の名前だという指摘を意識して再度 '岡本実' という名前に改名したという話も広く知られ人気検索語に共に浮上した。
李正姫*(イ・ジョンヒ)統合進歩党候補は前日のTV討論で朴槿恵セヌリ党候補を相手に「外交の基本は主権を守ることだ。 忠誠血書を書いて日本軍将校になった高木正雄、誰のことか分かるだろう。 韓国名、朴正熙。 軍事クーデターを起こし屈辱的な韓日協定を押しつけた張本人だ」として、朴槿恵候補の父親である朴正熙前大統領を正面から批判した。
この発言で朴正熙が日帝時代に日本の傀儡国である満州国の将校として日本皇帝に血書をもって忠誠を誓い、姓と名も日本名の高木正雄に創氏改名したという事実が新たに話題に浮上した。
慶北(キョンブク)善山(ソンサン)で生まれた朴正熙は大邱(テグ)師範学校を卒業した後、聞慶(ムンギョン)普通学校で教師をして1940年4月日帝が中国侵略のために建てた傀儡国である満州国の陸軍軍官学校に2期生として入学し、1942年3月に首席卒業した。 当時の新聞を見れば朴正熙は副賞として満州国溥儀皇帝名義の金時計を下賜された卒業生代表‘高木正雄’としてこのように答辞した。
"私は今日忠良な皇国臣民として天皇陛下と溥儀皇帝陛下に滅私奉公の精神で忠誠をつくすことを誓います。 私は大東亜共栄圏を成し遂げるための聖戦に命を捧げ、桜のようにとともに立派に死ぬ覚悟です。" (ペク・ムヒョン、<漫画 朴正熙1>、90ページ)
以後、朴正熙は1942年に日本陸軍士官学校に編入し卒業した後、1944年皇軍陸軍少尉として任官した。 教師をして再び軍官学校に通ったなどの問題で朴正熙が年齢超過で軍官学校試験から脱落すると、朴正熙は‘血書’とともに入学許可を訴える手紙を志願書類に同封して提出するなど入学許可を勝ち取るためにもがいたし、これは当時新聞に報道されるほどであった。 民族問題研究所によって公開されたこの‘血書手紙’は今でも日本の国会図書館に保管されている。
満州軍官学校生徒代表 朴正熙<満州日日新聞>(42年3月)に報道された満州国新京陸軍軍官学校2期生予科卒業式。 朴正熙生徒は優等賞を受けて副賞として溥儀皇帝名義の金時計を下賜された。 隊列の前で生徒代表として挨拶しているのが朴正熙だ。
"日本人として恥かしくない精神と気迫で一死奉公のために堅く決心します。 確実にやります。 命をつくして忠誠をつくす覚悟です。 一人の満州国軍人として満州国と祖国のためにいかなる一身上の栄達も望みません。 滅私奉公、犬馬の忠誠をつくす決心です。"
日本に‘犬馬の如き忠誠’を捧げ‘一死以テ御奉公' をつくすという朴正熙のこの血書は当時<満州新聞>(1939年3月31日)に‘血書軍官志願-半島の若き訓導から’というタイトルで報道された。
ク・ポングォン記者 starry9@hani.co.kr