朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学
うちの子は私にたまに「世の中で一番悪いことは何なの?」と尋ねてきます。そんな時は彼にこう答えます。考えもせずに権威や権力に服従することこそ最も危険で悪いことだと。しかし、残念ながら、これはほとんどの社会が最も要求し最も奨励する事でもあります。
暴力が最も悪いのではないかと問い返す人ガいるかもしれませんが、場合によっては、ある種の暴力は十分理解できます。たとえば、南韓では当然(!)ほとんど知られていない人ですが、20世紀ポーランドの最も偉大な名言と諷刺の作家スタニスラブ・イエージ・レッツ(http://en.wikipedia.org/wiki/Stanis%C5%82aw_Jerzy_Lec 1909-1966)という人がいました。「悪法の世界では人々はたいてい無法を希うものだ」、「奴隷たちの夢は、市場で主人を買える状況だ」、「世界に向かう窓は新聞で塞ぐことができる」等々の格言を残した人で、戦前のポーランドで反戦運動などをした知識人でした。1950年代初頭にイスラエルに行ったものの、「特定の種族だけの国家」では到底暮らすことができず、スターリン主義下で出版なども難しいことを承知の上で自らポーランドに帰ったほどに民族主義を嫌悪した国際主義者でもありました。レッツはユダヤ人出身のうえ社会主義者でもあったため、ファッショたちによるポーランド占領時期には収容所に入れられ、逃走を試みてつかまりました。捕まえた彼を今や銃殺しようとするナチス親衛隊員は彼にシャベルを渡し、「先ずお前の墓を掘れ」と命令したのですが、レッツはまさにそのシャベルで親衛隊員を叩き殺しパルチザンたちのいる森に逃げ切りました。ナチス親衛隊員をシャベルで叩き殺したことは確かに暴力とはいえ、ナチス親衛隊の暴力性とその親衛隊員が平気で執行しようとした銃殺刑の暴力性などを考え合わせれば、レッツの暴力は果して審判することができましょうか。ナチス治下での殉教も正常な人間が選びうる一つの道ですが、ある巨大な暴力を制御するための最小限の正当防衛行為も一個人の当然の選択になりうるのです。
むしろレッツより遥かに問題なのは、何の問題意識もないままに彼を銃殺しようとしたまさにその親衛隊員です。こんな職業的な殺人者たちは果して殺人者として生まれたのでしょうか。とんでもありません。児童期にはレッツとその親衛隊員はいくらでも竹馬の友にもなりえたはずです。殺人者は生まれつきではなく、後天的な教育課程の結果です。そしてその教育課程そのものは、特定の無惨で猛烈な民族主義的思想だけで成り立っているわけでも決してないのです。もちろんナチス親衛隊員になろうとすれば、その課程の最後に超民族主義への道をを内面化しなければなりませんが、思想としてのナチズムはその教育課程の10%にすぎません。残りの90%は無意識の服従訓練です。そのような服従が完全に自動化しないかぎり、そこに「国家と民族」に必要な思想をも注入しても、立派な殺人者に仕立て上げることはできません。もちろん服従教育は必ずしも子供向けにのみ成されるわけでもありません。大人たちも特に意識せずに従わなければならない時がかなりあります。たとえば、国際空港の保安検査を考えてみましょう。ベルトを外して身体検査をさせられるのは、実はかなり人間的な尊厳を踏みにじられる行為です。しかし、私たちは果してこのような検査が本当にテロリストの制圧に効率的なのか、すなわちどれほど合目的的なのか、なぜこのような検査に何も言わず従わなければならないのかについては真剣に考えたりはしません。「合法的な権力」が要求することをそのまま無条件に、疑問を抱くこともなく行います。検査そのものはたいしたことではありませんが、ナチス親衛隊員の立場ではヒトラーが「合法的な権力」であり、レッツが今日でいう「テロリスト」のような「不穏分子」だったという点をぜひ覚えておかなければなりません。
大人の服従は必ずしも行動だけで成されるわけでもありません。意識の面で成される服従の方がむしろ遥かにおぞましいものです。飛行機に乗るために人身冒涜以上の何ものでもない保安検査を黙って仕方なく受け入れる人は理解できるものの、支配者たちの思惑にまで同意することは絶対に避けられない事柄ではないでしょう。にもかかわらず、私たちの多くはそのまま同意してしまうのです。たとえば、『ハンギョレ』を含むすべての南韓の新聞らは二人の同僚(上司)を殺して南韓側に逃走した北朝鮮の兵士を「帰順者」と表現していますね。「帰ってきて私たちに従い始めた人」、帰順者。第三者の立場で客観的にみれば、問題の北朝鮮の兵士がやらかした行為の正確な名称はおそらく「殺人と逃走」です。他国への逃走/亡命は犯罪ではないにしても、(正当防衛でない以上)殺人は明らかに犯罪なのです。北朝鮮の将校の殺人もまったく同じ犯罪です。にもかかわらず、私たちはほとんど無意識的に「敵兵を射殺」したその北朝鮮の軍人を犯罪者ではなく「亡命者」としてみようとする南韓の支配層の意識に同意してしまっています。「北朝鮮=敵」の等式に慣れているだけに、「敵」の生命の喪失に対して私たちは人間的に悲しむ能力さえも失ったようです。「敵」は人間ではないからです。まあ、その親衛隊員の目から見れば、ユダヤ人であると同時に社会主義者、しかも反戦活動家の上に逃亡まで試みたレッツも「人間」ではなかったはずです。
大人たちの思考と行為も馴致され続けるのですが、子供たちは「馴致の工場」である学校やその部属/類似機関(塾など)で彼らの時間の大半を過ごさなければなりません。先生の言うことを聞けば誉められ、先生の話や教科書の内容をよく暗記すれば誉められ、また成績競争で他人より暗記と服従がうまければ褒められ報償されます。そんな子供が必須の修学旅行で牙山の顕忠祠に行き、そこで私たちの国家と民族を守るために敵を多く殺害することがすなわち善の極致ということを可視的に学びます。ドラマを通じ、ゲームを通じて有名になったあの李舜臣まで結び付けられてです。次は独立記念館に必須の修学旅行に行き、キョレの塔と民族の精気を表現する夥しい象徴物などを見てまわりながら、「私たちの政府」そのものが善を代弁する我が民族を代表するということを、独立運動の正統性を引き継ぐということをまた学びます。その次はまた国立墓地に行き、そこに埋められている米帝のベトナム侵略の補助役であった韓国の派越軍人たちを「殉国先烈」として学び、善を代表する「私たちの政府」がアメリカと一緒に誰かと戦えば、その戦争もまた善になることを学びます。暗記に慣れているだけに、その子供たちは顕忠祠と独立記念館と国立墓地の伝える理念的なメッセージをあまりにも容易に内面化します。皆さん、私たちは現実を直視する必要があります。このような子供たちがもし将来、反北・反中侵略に動員されたら、果してあのナチス親衛隊員のように平気で罪のない犠牲者たちに対する銃殺刑を執行することをためらうでしょうか。そのような過程を経た子供が、レッツのような生涯反抗者になる可能性は高いでしょうか。それが問題なのです。
反抗はたまには荒い時もあり、その理念的な内容が過激であるなど、様々な点で問題を内包しているものの、最も荒く図式主義的な反抗者より最も善良でやさしい服従者が遥かに危険なのです。大衆の服従こそ人類が経験した最悪の犯罪を生み出した母胎なのです。知識人に責任があるとすれば、力が尽きるまで人々に向かって「どうか従うな!考えろ!疑え!あらゆることを疑い絶対に盲従するな!」と声高く叫び続けることでしょう。ところが、服従訓練においては南韓の知識人たちがむしろ先頭に立っており、韓半島が今後再び無惨な虐殺の場になりうる基盤をたった今一生懸命に準備していることが問題なのです。
原文入力:2012/10/11 19:17(3385字)