本文に移動

[朴露子ハンギョレブログより] 心の準備

登録:2012-10-02 06:11
http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/52283

原文入力:2012/09/27 20:00 (3400字)

朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

 人間は過去は知っていても未来は知りません。常に過去に向いているということです。未来を想像する時は、おそらく過去とあまり変わらないだろうと想像するきらいがあります。そのため、急に迫ってくる変化にまったく対応できず、挫折し自分自身を裏切ってしまうのです。たとえば、87~88年のPD運動圏の意識構造を考えてみましょう。85年以来、運動の波が激しさを増し、軍事政権が揺らぎ出し、遂に87年に一応の形式的な民主主義がある程度復元されたのを目の当たりにした彼らは、引き続き革命の熱気が溢れるだろうと想像していました。実際、東欧が崩壊しそれなりに豊かになった南韓がまもなく形式的な民主主義を全面的に導入するとともに、やや保守化するだろうとみた人はほとんどいませんでした。結局、89年以降の現実を見てから彼らはどうなりましたか。変わった状況の中でも引き続き社会主義的な理想を求めて努力する人々もあったものの、ものすごい挫折を味わってから単なる生活人になってしまったか、それとも金文洙(キム・ムンス)などの教科書的な事例のように、180度変わった場合も少なくありませんでした。歴史のまったく望ましくない展開に対する心の準備がなかったし、それに備える戦術も戦略もなかったのです。

 運動圏の挫折も一つの例ですが、私も彼らと同様、まったく予想できなかった未来を迎えたわけです。私もおそらく約91年の夏までも、ソ連が崩壊しソ連型福祉国家が蒸発することで、それなりに機能していた莫大な規模の学術的なインフラを支える社会の代りに、初期資本主義的な野蛮が幅を利かせるようになるとは、まったく想像すらできなかったのです。結局、1992年初頭、(約100倍の超インフレをもたらした)いわゆる「物価自律化」という名の野蛮さに初めてぶつかってからは、ひたすらショックで打ちのめされてしまい、その後はいかなる巨視的な思考のようなものもほとんどできなくなりました。飢えないことが何よりの急務で、暗黒の中でもそれでも勉強を続けなければならないという思いしかありませんでした。いきなり押し寄せてきた野蛮の波に打ち勝つために他者と連帯しなければならないと考えたことさえほとんどありませんでした。それまで「飢餓」とはどんなものか体験的に知らなかった人間が落伍者がいくらでも餓死しうる環境に置かれると、ただ「自己の生存」以外はいかなることも考えられなくなりました。まったく予想だにできなかった未来にかくも圧倒され、思想のある人間としては徹底的に崩壊したわけです。生存にすべてを賭ける生活人になってしまいました。

 今私が20余年も前の暗い話をわざわざ持ち出す理由はどこにあるでしょうか。最近互いに脅迫的なジェスチャーを取っている中-日、そして「同盟国日本」を助けるといって、密かに東アジア諸国間を反目させる米帝を見ながら、本当に私たちにとって暗鬱な未来がやってくる可能性も高いと次第に思うようになりました。もちろん今すぐに戦争の危険があるわけではありません。中国はまだ(たとえ鈍くなっているとはいえ)成長中であり、日本もまだ本格的な再軍事化が完了しておらず、中国の悪魔化もまだ始まったばかりです。問題は、経済的ないし政治的なメカニズムの「故障」が深刻な水準に達し、(特に中国の場合は)下からの反権力的な民衆運動が激しくなれば、権力者たちが「革命よりは戦争がましだ」という判断の下、領土問題などを口実にしていくらでも内部的な緊張を外部的な衝突で解消しようとしかねないというところにあります。彼らはもちろん「小さな戦争」を望みますが、戦争を始める時にその規模をあらかじめ把握することは絶対にできません。米帝が2001にアフガニスタンを侵略した際、果してタリバンが10年以上もパルチサン攻撃を続けられると果して予想したでしょうか。そして、中日米間の緊張が軍事的衝突につながれば、親中国家と親米国家に分かれている朝鮮半島も戦場化する確率は高いことはあえて言うまでもありません。

 現実性のない灰色の幻想と決め付ける方々もいらっしゃると思いますが、たとえばこんなことを一度考えてみましょう。1913年にヨーロッパがわずか1年後に大きな屠殺場と化すことを果して想像した人は多かったでしょうか。実は、1870~1914年の間は「世界化」の時代であり、貿易と海外投資などがブームを成した時代だったため、「大戦」を想像することは難しかったのです。ヨーロッパ列強たちの貿易額はその期間中に4倍も増えており、1913年のイギリスの国富の約32%は海外に投資されていました(今のアメリカと似ています)。列強主導の全世界の総生産に占める海外投資の割合は、1870年に7%だったのが1913年には20%に達しました(今日と似た数値です)。貿易と投資でがちがちに縛られた「黄金の世紀末」の世界は当時のインターネットに当たる電信を通じて地球のあらゆる田舎のニュースがその日その日に至る所の新聞に載せられる「地球村」になりました。西欧人たちの海外旅行にはヨーロッパ内ではパスポートさえ要らなかったし、アメリカへの移民も完全に自由でした(もちろん「有色人種」のアメリカ移民は完全に別の条件の下で成されていました)。かくも豊かに発展し続け、互いに繋がっていて自由に旅行し易い、たいへん便利な世界がまもなくタイタニックのように沈沒するとは誰が知っていたでしょうか。レーニンのような偉大な革命家さえも、理論的には帝国主義の危機はいつか来るだろうと思っていたものの、戦争と革命の時代がそこまで来ているとは想像もできなかったのです。1913年のボルシェビキ政党はロシア国会に労働者出身の議員を6人を送った議会政党だったし、レーニンはこのような議会活動をおそらく長く続けなければならないと予想していたはずです。そうえいば、個人的にはありがたいことに、まさに当時のロシア国会のボルシェビキ議員グループが「ユダヤ人など少数者の市民権制限撤廃」法案を提出しました。もちろん反動たちの反対にぶつかって否決されましたが。とにかく、あの太平の世にボルシェビキの急務は、「革命」よりこのような弱者の保護に関連する法案でした。ちょうど4年後に世の中がすっかり変わり、弱者のない世界を作るプロジェクトに取り掛かれるとは誰が予想したでしょうか。

 1913年のイギリス、フランス、ドイツ、アメリカのように、今日の中米日韓なども様々な経済関係で互いに結ばれていたものの、いつでも資源や市場、影響圏などをめぐる武装葛藤が表面化しうる帝国主義的な世界秩序の基本原則をまったく変えることはできません。1913年にもそうだったように、この偽りの太平の世は急に終りを告げ、野蛮と殺戮に取って代わりうるのです。恐ろしい話ですが、これこそが資本主義的な世界の悲しい現実なのです。資本主義を受け入れることのできない人間にとってその際に重要なことは心の準備なのです。いかなる暴風が押し寄せてこようとも、搾取者たちの総本山のような国の軍隊を「我軍」とは呼ばない心の準備、殺人者たちがいかに「国が危ない!」と喧伝しようとも彼らのための弾除けにはならない心の準備、いかなる状況下でも彼らの戦争行為には動員されない心の準備、そしてさらには戦争を避けられない要素として抱えている資本主義的な制度の撤廃のためにいかなる状況においても働く心の準備。こんなことが急にとても必要になってくるかもしれません。もちろん全社会が「総動員モード」に転換する時、レーニンのように「帝国主義的な戦争が階級間の内戦に転換されなければならない。革命のために自国の敗北を望む」と話すことはとても難しいことです。超人的な勇気が必要なのです。しかし、このような状況で自分の信念を貫かなければ、その信念も結局はにせ物と見なければならないでしょう。とにかく、太平の世が永遠に続くと自己を欺瞞しないでください。

原文: 訳J.S