原文入力:2012/07/05 15:35(7730字)
←各自別の時期に群山(クンサン)女商高の校門を出て三星電子に出発した4人の卒業生は命を失ったり、病に罹ったり、工場で夫を失うなど全て苛酷な運命を体験した。 去る6月27日に訪ねた全北(チョンブク)、群山女商高。今年上半期、三星モバイルディスプレイなどに就職した学生たちの入社を祝う横断幕が懸かっている。 ハンギョレ21 チョン・ヨンイル
年俸が高く寄宿舎で生活 人気の高かった職場
1995年以後 一年に100人・150人ずつ就職…
作業ラインに立った彼女たちは腫瘍・多発性硬化症を病み
白血病で夫を失い、再生不良性貧血に罹って亡くなった…
錦江の河口、全北、群山は静かな都市だった。 日帝はそのような群山を米収奪のための都市に変えてしまった。 今も残っている旧群山税関・朝鮮銀行・長崎18銀行の建物、浮き桟橋などは塩辛い痕跡だ。 日本総督は‘コメの群山’と叫んだという。
ユン・スルギ(31)、イ・アヨン(31・仮名)、キム・ミソン(32),チョン・エジョン(35)は‘群女商’を出た友人、先後輩の間柄だ。 ユン氏とイ氏は2000年2月に卒業した。 キム氏は1998年、チョン氏は1996年の卒業だ。 先輩が3年の時、後輩は1年だった。 ‘すばらしい群女商~’校歌も一緒に歌った。 群女商は群山女商、つまり全北道立群山女子商業高等学校を言う。 ユン氏は亡くなり、イ氏は手術後に後遺症を心配しながら暮らしている。 キム氏は闘病中で、チョン氏は同じ職場で出会った夫を病気で失った。 病名はそれぞれこうだ。 重症再生不良性貧血、頭頚部境界性腫瘍、多発性硬化症、白血病. 群山女商出身だけが唯一大変な運命を持って生まれたわけがない。 それぞれここで仕事をしていて突然病気になった。 三星液晶表示装置(LCD)天安(チョナン)工場、三星半導体器興(キフン)工場、三星LCD器興工場、三星半導体器興工場。
卒業を控えた少女たちは‘産業のコメ’と言われる半導体を作るために故郷を離れた。 ホコリの一粒も許されないというクリーンルーム。制服の代わりに頭からつま先まで白い防塵服を着た。 長いストレートの髪、短い髪を中にぎゅうぎゅうと隠した。 黒い目だけを出した。 そのようにして作った‘コメ’が長い伝統の地方女子高出身者たちを苦しめている。
同じラインの姉さんは泡を吹きながら倒れた…
イ・アヨン氏はユン・スルギ氏より1ヶ月遅い1996年6月に三星電子に就職した。 イ氏は15年前に入社した時をまだ記憶している。 地方小都市の学校である群山女商から‘世界超一流’大企業 三星電子に仕事場を見つけるというのは、生徒たちの間で自負心を感じられることだった。 成績も少々良くなければ合格は難しかった。 一学年上の先輩たちも100人余りが三星電子の門を叩いたが、40人余りが合格しただけだった。
学校に三星電子の職員が訪ねてきた。 面接場には志願者7人が一緒に入って3人の面接官から質問を受けた。 「その時は半導体会社が賃金も多くくれて、寄宿舎施設も良くて人気がありました。 私もお金をたくさん稼ぎたくて必ず三星に行きたいと考えましたよ。」イ氏は1ヶ月後、学校にきたバスに乗って三星電子研修院に行った。 その年、群山女商3年、百日紅クラス47人の内、三星電子に合格した友人はイ氏とユン氏ら5人だけだった。
イ氏は器興工場2・3ラインで化学蒸着(Chemical Vapour Deposition)工程オペレーターとして配置された。 半導体に電流が流れるように処理したドーパント(Dopant・微細不純物)を受け取り、ガスを利用して電気が流れたり流れないように処理する工程だ。 2交代、3交代勤務を繰り返す会社生活は窮屈だった。 喘息・皮膚病にもかかった。 倒れたこともあった。 「からだがとにかく良くありませんでした。 会社に馴染めないようでストレスも多かったです。」 彼女は2002年4月に会社を辞めた。 故郷の群山に戻ってきて翌年には大学生になった。 したかった勉強を全てしたかった。
理由もないのにからだが痛むことが頻繁になった。 ひどい風邪をひいたように力が入らなかった。 「一度痛くなれば1ヶ月治りませんでした。 1年に4ヶ月ほどはそのように気力がなくなりました。」ひどい風邪だと思って薬を飲んだり病院を訪ねて注射を打ったけれどもなかなか良くならなかった。 大学を卒業して新しい職場を得た後にも病気はずっと追いかけてきた。
2009年夏にソウルの大型病院を訪れた。 病名は‘頭頚部境界性腫瘍’. 担当医師は神経系に腫瘍ができる病気だといった。 「大型病院でも年に患者が3人程度の稀貴病だといいましたよ。 直ちに除去手術を受けましたが、顔面マヒなど手術の副作用が出て苦労しました。」 現在、彼女は副作用が軽減し職場に通っている。
イ氏は自身の病気が半導体工場に通ったためと考えている。 「私が勤めていた時、ラインで一日中工程検査をしていた姉さんがいましたが、ある日突然、泡を吹いて倒れたことがあります。 後日分かったのですが、私たちのラインで白血病で死亡した姉さんもいましたし。 私が勤めた時期が2000年の停電で工場が停まった時期とかみ合いますね。」 当時の停電で化学ガスなどが流出したという疑いが提起されたことがある。 一時、イ氏の姉さんは他の発病者たちのように労災申請をしようと薦めた。 彼女はしなかった。 「死んだ人でも受け入れないのに、私のような人の申請を受け入れますか? 私はただそこを抜け出したことだけでも本当に幸せだったと思います。」
キム・ミソン氏は卒業後、ユン・スルギ氏と連絡をとらずに過ごしていた。 ユン氏の死は<ハンギョレ21>取材過程で聞いた。 「その時はあんなに行きたがった三星であったけど、このようになるとは私も思わなかった。 スルギだけでも労災が認められて悔しさをほぐせたらいいですね。」
←群山女商出身であるイ・アヨン、チョン・エジョン氏が勤めた京畿道龍仁(ヨンイン)の三星電子半導体事業部器興工場の姿。ハンギョレ21 ユン・ウンシク"必ず日本に行って暮らすんだ" 待ってはくれなかった夢
ユン・スルギ氏は‘半導体労働者の健康と人権守り、パンオルリム’(以下パンオルリム)が把握している三星職業病による56人目の死亡者だ。 去る6月2日夜、群山のある病院で亡くなった。 「お母さん、あのね。 私は後で必ず日本に行って暮らすんだ。」 ユン氏はいつもこういう話をしていた。 群山で生まれ育った彼女だったが、大学は必ず日本に行くという夢を見ていた。 独学で日本語を学んだ。 好きな歌手も日本の‘SMAP' だった。 夢は叶えられなかった。 13年におよぶ闘病の末に重症再生不良性貧血で命を失った。
大学に行きたかったユン氏は母親のシン・ジョンオク(57)氏の勧めで群山女商に進学した。 就職率が高い学校だったためだ。 1999年5月、卒業予備生だったユン氏は三星電子に入社願書を書き、1ヶ月後に三星電子LCD事業部天安工場に入社した。 シン氏も大企業に就職した娘が誇らしかった。 ユン氏は化学物質に覆われたLCDパネルを切る業務に従事した。 シン氏が時々故郷の家に帰ってくる娘に会社生活を尋ねれば「ただの女工よ」というすっきりしない返事が帰ってきた。 シン氏は娘が就職する時にも三星‘工場’で仕事をするとは知らなかった。
入社して5ヶ月が過ぎた頃、ユン氏は作業場で突然倒れた。 ただのひどい風邪だと思ったが症状が激しくなった。 病院を訪れたところ‘重症再生不良性貧血’という結果が出た。 骨髄細胞機能が弱くなり赤血球・白血球・血小板が全て減少する病気だった。 女子高生時期には献血もたびたびした彼女だったので、より一層変だった。 長い闘病生活が始まった。 定期的に血小板輸血を受けなければならなかった。 そのような中でも2002年には郡山大日本語日文学科に入学した。
からだの調子はよくなかった。 家にいる時間が絶対的に長くなった。 村上龍の日本小説を読んで時間を過ごした。 ユン氏は去る4月、三星電子半導体温陽(オニャン)工場で働き再生不良性貧血に罹ったキム・某(36)氏が初めて労災を認められたという消息を聞いて労災申請をすることを決心したが、時間はユン氏を待ってくれなかった。
キム・ミソン氏はイ・アヨン、ユン・スルギ氏の群山女商の2年先輩だ。 キム氏は高等学校卒業予備生だった1997年、三星電子LCD事業部器興工場オペレーターに合格した。 ユン氏と同じ会社だが工場は違った。 卒業後、ユン氏が歩んだ道を2年先に歩いていたわけだ。 類似点はまたある。 彼女が病気に罹った時期は2000年3月。 ユン氏が病んでいた時期と似ている。 キム氏は現在ソウルで闘病中だ。 多発性硬化症と視神経炎を病んでいる。 多発性硬化症は発病原因が明らかになっていないが、化学物質への露出やストレスなどで身体が麻痺したり視神経損傷、脊髄炎、末梢神経障害などを起こす病気だ。 キム氏は視神経炎で視力障害判定を受けた。
"半導体工場がそういうところだと知っていたら…"
"初め会社の試験を受けた時は、面接費1万ウォンをもらって喜びましたよ。」キム氏が卒業した当時、三星電子LCD事業部へ100人余りの生徒たちが行った。 「国際通貨基金(IMF)事態時期と重なったために就職の心配が強かった時期でした。 月給をたくさんくれる大企業でたくさん採用すると言うのでうれしかったですね。」 1997年6月に入社して研修院を経て器興工場でLCDモジュールとパネル製造部署でハンダ付け業務を担当した。 「初めはパネルがくれば磨いてタブを取り付ける作業をしました。 1年ほどこの業務をして、その次はハンダ付け工程にいました。」
3年近く仕事をしたら突然からだの左半身が麻痺する症状が現れた。 左腕を上げることさえできなかった。 そのような病歴を持つ家族もいなかった。 2000年3月、病休申請を出した。 症状が激しくなってその年末には結局会社を辞めた。 「お母さんが労災申請をしようといいました。 でも私は反対しました。 再び会社を行くこともありえたし、会社に訊いても個人的な病気だから労災は認められるのが難しいだろうといいましたよ。」
マヒがくるたびに1年に何度も入院を繰り返した。 現在、右目は見えなくて、左目はコンピュータ画面の文字を見つめるのが難しい状態だ。 昨年、言論を通じて‘パンオルリム’という団体を知った。 彼らの助けで勤労福祉公団に労災療養申請を出した。 「ハンダ付け作業は作業者が直接すべてしなければならず、空気浄化装置が故障していたり紙マスクだけ付けていても仕事をしました。 これがどれほど有害なのか作業する私たちも知らない程ですからね。」 彼女はこの頃も二ヶ月に一回ずつ病院で薬をもらってくる。 抗体検査、血液検査もしなければならない。 「高等学校の時、半導体工場がそういうところだとあらかじめ知っていたらおそらく行かなかったでしょう。」
メモリー半導体産業は1995年に途方もない好況を迎えた。マイクロソフト(MS)がコンピュータOS‘windows95’を出すとメモリー需要が急増してメモリー価格が急騰した。 二人の子供の母親であるチョン・エジョン氏は現在、京畿始興市(シフシ)で保育教師として仕事をしている。 一時、三星電子で仕事をした彼女は他の群山女商卒業生のように‘三星職業病被害者’の一人だ。 三星電子で一緒に仕事をした夫を白血病で失ったためだ。
彼女は2才年上の姉さんの後を追って群山女商を出た。 卒業後も姉さんについていった。 姉さんが仕事をしていた三星電子に就職した。 「その時も群山で事務職の仕事場を見つけることができなければ、ほとんどが三星電子に行きたがりましたよ。」半導体好況が始まった1995年10月、三星電子半導体器興工場にオペレーターとして入社した。 その時、卒業生の大部分は働き口について漠然と故郷を離れなければならないという恐れがあった。でも、三星電子は立派な寄宿舎施設のおかげでそのような心配の必要がない職場だった。 「入社試験を受ける時、生活記録簿をたくさん見ました。 無断欠席をしたことがあるか。 誠実な人を好んだようです。」 その年に群山女商ではチョン氏を含めて150人余りが三星電子に入った。
白血病に罹った夫、会社に通い続けた妻 入社3年目のある日、彼女は社内合唱大会の練習をしていて夫ファン・ミヌン氏に出会った。 春川(チュンチョン)機械工高出身のファン氏は半導体工程で機械を手入れするエンジニアであった。 2004年にひどい風邪を病んだ夫のファン氏が応急室に運ばれていった。 病院は白血病という診断を下した。 骨髄移植を待って9ヶ月闘病したファン氏は二番目の子供が生まれて10日後に命を失った。「会社でも夫は個人的な病気だといいました。 それで私はしばらく会社を通い続けましたよ。」
チョン氏は最近出版した三星電子半導体工場の話を書いたルポ漫画<ホコリのない部屋>(麦出版)の話の中の実際の主人公でもある。 彼女は過去に勤めた経験を基に他の人々の労災申請を助けている。
6月27日午後5時、授業を終えた群山女商の生徒たちが校門を出てくる。 きゃっきゃっと溢れでる笑い声が女子高生らしい。 正門の上に懸けられた‘祝合格’横断幕は今ちょうど就職に成功した友人たちを祝っている。 三星モバイルディスプレイ天安工場にも6人が入社した。 オペレーター職だ。 別の半導体会社にも30人近くが入社した。 3年生たちに‘三星半導体工場’について知っているかと尋ねた。 「自分たちどうしで話します。行けば良くないそうだ、危険だそうだ。」 「それでも入るのは容易ではありません。 三星じゃないですか。 年俸も良くて。」 「以前には先輩たち数十人ずつバスで乗せていったりしたんですよ。 この頃は三星募集があまりありません。 会社で金がないんですって。 ハハハ。」 1年生たちも分かってはいる。「就職するために女商にきたんじゃないですか。 でも群山には就職先があまりありません。」
群山女商側は 「働いただけお金をくれる所が多くないので生徒たちがオペレーター職を好む傾向がある」と説明した。 ユン氏とイ氏の百日紅クラス高校3年の担任教師だったイ・某(55)氏も「外国為替危機直後で働き口がなかった1999年に三星電子が良い条件で生徒たちをたくさん採用して行ったこと自体が鼓舞的なことだった時期」と話した。 学校側は「以前には半導体・LCD方面が危険だという認識や情報がなかった。 この頃は言論の報道等を通して提起された問題や勤務環境などに対する説明をしている」と話した。 パク・ヒョンピョ教頭は「私たちの卒業生がそんなことを体験したということが残念だ」と話した。
白血病や癌は三星電子に通わなくても生じることがある。 しかし同じ工場、同じライン、似た工程、ほぼ同じ時期に数人が集団発病するのはよくあることではない。 職業病認定を巡り三星側と争う部分は、今は消えてなくなった10年余り前の生産ラインの‘状態’だ。 三星や政府は現在の生産ラインを基準として判断しようとしている反面、発病当事者は当時の老朽施設を証言している。
←重症再生不良性貧血を病んで去る6月2日に亡くなったユン・スルギ氏の全北、群山の自宅に置かれている彼女の写真と日本語教材、小説。 ハンギョレ21 チョン・ヨンイル三星 "死は残念だが化学物質との接触がない工程"
三星電子関係者は 「一時社友であったユン・スルギ氏の早すぎる死を残念だと考える。会社ができる部分については誠実に応じる」と語った。 しかしユン氏の病気が業務と関連したかについては明確に線を引いた。 ユン氏の勤務期間が6ヶ月(実習期間4ヶ月含む)に過ぎず、化学物質との接触が殆どない機械的プロセスを担当したということが理由だ。 「入社前に一般的に健康診断をするが、再生不良性貧血を捜し出すほど詳しくは見ないじゃないですか」とも言った。 パンオルリムのイ・ジョンナン労務士は 「製品を切る過程で化学物質が飛散されうる。 再生不良性貧血は潜伏期が短く短期間の露出でも発生すると知られている」として三星側の説明を一蹴した。
三星側はイ・アヨン、キム・ミソン氏の事例に対しても 「卒業生数等を考慮した発病率を確かめてみなければならない。 同じ学校の出身という理由でそれぞれ違う病気をまとめて相関関係を作るのは科学的分析とは見られない」と言った。 ‘特定時期、特定空間、特定工程’に限定して発病率を確かめてみようと言ったが、この部分は説得できなかった。
三星側はパンオルリムに公開検証を提案しもした。 「パンオルリムが情報提供者として公開した137人の場合、匿名で会社も違い発病時期も違う。 具体的に誰なのか、どの職種、どんな病気があったのかを公開するならば共に検証してみることができる。」イ・ジョンナン労務士は「三星電子健康研究所からも対話をしてみようという連絡がきた。 だが、この間三星は労災申請をしようとする人々をお金で懐柔して訴訟を取り下げるよう誘導するなど、信頼に値する行動を示せなかった。 このような状況でどんな対話が可能か」と語った。
イ・ゴンヒ 三星電子会長は去る6月14日、ペルーでヘリコプター事故で亡くなった三星物産職員4人の葬儀室を訪れた。 海外業務を遂行する職員の安全対策を強化するよう指示した。 彼が黙って通り過ぎた葬儀室が56回目だ。 ホコリがないから、白いからと言って清潔ではない。 防塵服が恐ろしいほどに白い。
群山(全北)=<ハンギョレ21>キム・ソンファン記者 hwany@hani.co.kr・キム・ナムイル記者 namfic@hani.co.kr
ユン・スルギ、キム・ミソン、イ・アヨン、ファン・ミヌン氏と同じ時期、同じ工場、同じラインで勤めた方の情報提供を待ちます。当時の作業環境に対する証言は職業病・労災の有無を切り分けるのに役立つことができます。 連絡先:hwany@hani.co.kr または‘半導体労働者の健康と人権守り、パンオルリム’ (cate.daum.net/samsunglabor)
原文:
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/541169.html 訳J.S