原文入力:2012/06/20 22:50(2818字)
朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学
まもなく世界恐慌の狂風に巻き込まれ、墜落の一途を辿っている国内経済を回復させる方策がないためでしょうか。大統領選挙が近づけば近づくほど「複雑な」経済の話より感性に訴えやすい「象徴」にかかわる政治の話が人気を誇っています。数日前に左派民族主義者に分類されるある国会議員が南韓の公式的な「愛国歌」よりむしろ「アリラン」の方を真の国歌とすべきという主旨の発言をして右派たちに袋叩きにされました。私は左派民族主義とはなんら関係ありませんが、彼がなぜ袋叩きにされなければならないのかが到底理解できません。正しい話でしょう。南韓の「愛国歌」も北朝鮮の「金日成将軍の歌」も南北韓双方の人民たちが共に歌うには不都合があるため、「南北共同の愛唱」用としては「アリラン」のような歌などが適切だろうという話のどこが間違っているでしょうか。南北韓の接近、平和共存と相互理解を念頭に置きつつ南北が一緒に歌える歌を不断に共同体の象徴化していくことは悪い話ではないはずです。もちろん、私の場合なら、個人的に北朝鮮の人々に会えば、「アリラン」以外にも一緒に歌える曲はいくつかあります。たとえば、北朝鮮の「赤旗歌」は『シルミド(実尾島)』のおかげで南韓にも知られましたが、私は学生時代に英語で原曲をよく愛唱していたので、今でも -音痴ながら- いくらでも歌えます。
The people's flag is deepest red 民衆の旗は最も濃い赤色
It shrouded oft our martyred dead 殉教した我々の戦死者たちをこの旗は覆い続けた
And ere their limbs grew stiff and cold, 彼らの四肢は冷えて固くなっても
Their hearts' blood dyed its every fold. 彼らの血はこの旗を赤く染め尽くす
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この歌はたとえ妥協主義的なイギリス労働党の非公式的な党歌として採用されたとはいえ、子供の頃これを歌いながら英語を習った記憶がありありと思い出される上に、曲の感性にも完全に同調するため、北朝鮮の人々にもし会えるなら、英語ででも朝鮮語ででも日本語ででもどの国の言葉ででも一緒に歌う準備は出来ています。ああ、本音を言うなら、林和(イム・ファ、1908~1953)作詞、金順男(キム・スンナム、1917~1983?)作曲で、ソ連の偉大なる音楽家ハチャトゥリアン(1903~1978)が伴奏を付けた「朝鮮パルチザンの歌」(1948)でも北朝鮮の方々と一緒に歌ってみたいものです。
君、我が祖国よ
私は君からどんなに遠く離れているのか!
ここは灌木に覆われた山奥
夜は森の中に動物たちが隠れているよ(…)
ところが、林和の悔しい運命を考えれば、北朝鮮の方々はこの歌を知らない可能性も極めて高いので、とても悲しいことだといわざるをえません。
南韓の方々とも北朝鮮の方々とも一緒に歌ってみたい歌はたくさんありますが、私にも、意識を持つ人間として生きている限り、とうてい受け入れられないことがあります。南韓の「愛国歌」であれ北朝鮮の「愛国歌」であれ、いかなる国の愛国歌であれ、それは絶対に歌えないということです。その理由はとても簡単明瞭です。ある歌を歌うということは、何よりもその内容に対する感性的な同意を意味します。歌いながら感情移入が避けられないからです。「アリラン」のように個人的・集団的な受難や叶わぬ恋、別離、異郷暮らしなどが盛り込まれた内容についてはどうして感性的な同意ができないでしょうか。しかし、信じもしない「神様」まで持ち出して「我が国万歳」と歌うその瞬間、「我が国」がこれまでやってきて、そしてやり続けているあらゆる野蛮な行為から最早距離を置いて自分自身を個人化させることができなくなるのです。米帝のベトナム侵略から今も進行中の双竜自動車の解雇労働者たちに対する社会的他殺までです。「大韓人、大韓として」と歌われる途端、「大韓人」になりうる/なった私と、「我が国経済の発展」にいくら寄与しようとも、労災にあって百回死んでも、定住や国籍取得が夢のまた夢のような犯罪的な「雇用許可制」の「外国人」犠牲者たちとの間に越えられない壁ができてしまいます。万国の労働者が一つになり、労働者にロボットのような単純反復的な労働とその相対的な価値が傾向的に下がる賃金、他律的な服従と受け継がれる貧困だけが与えられるこの野蛮な制度を永遠に無くす道を妨げている最大の妨害物はまさに労働者たちをして「労働者」としての認識が生まれるより前に「国民」として呼ぶ「国家への帰属意識」です。その意識を「声」で再現し頭に刻み込み、ほとんど無意識の内に保存されている「旋律」でできている「国家を愛する歌」を歌うことは、「国民」になるために「意識を持つ労働者」であることを、ひいては「意識を持つ人間」であることを自らあきらめることを意味します。意識を持つ人間であれば、本人の愛すべき対象物は国家に指示されることなく選ぶことができるのです。
何年か前に日本で東京都板橋区の都立学校の教員だった藤田勝久先生が「君が代」斉唱の際の「起立を妨害」したとされ告訴されたことがあり、全部合わせてここ10年間に「君が代」斉唱拒否で様々な懲戒を受けて苦労された先生方が410名にも上るといわれています。ああ、いつか私たちが「全体主義的な儀礼を拒否するための韓日連帯」でも作って「愛国歌」と「君が代」の斉唱を共同で拒否することができればいいですね。中国、朝鮮、東南アジアへの侵略の歌と、越南、イラク、アフガン侵略助力の歌は、同時に双方の意識ある人々によって拒否されるべき十分な理由があります。ただし、問題は、「君が代」の本質が少なくとも「革新」を主張する人々の間ではある程度理解されている日本と異なり、私たちには未だに「国家」とその象徴物に対する幻想がとても多いということです。どれだけ多くの竜山惨事が繰り返されれば私たちが国家という組職の性格を正しく分かるようになるでしょう?
「国家の象徴物」に対するいろんな感想をもっと書きたくても、もうこれ以上は書く力がありません。明日は手術を受けることになっておりますが、おそらく -子供の頃の習慣どおりに- 「赤旗歌」を心の中で歌いながら外科室に向かうことでしょう。
原文: http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/49940 訳J.S