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[ハンギョレ21 2012.04.09第905号] "選択しなければ選択される"

登録:2012-04-09 08:28

[インタビュー特講] 第9回インタビュー特講‘選択’最後の時間…ハン・ホング聖公会(ソンゴンフェ)大教養学部教授が話した‘韓国現代史の選択’(3375字)


←ハン・ホング教授(右)は「歴史的選択で重要な点は選択の主体」として「歴史は長く見れば他人が侵害した自分の選択権限を取り戻す過程で発展してきた」と強調した。 <ハンギョレ21>ユン・ウンシク



 3月28日に予定された講義開始時刻の午後7時になってもハン・ホング聖公会大教養学部教授は現れなかった。「ハン・ホング教授は歴史学者だ。 そのためか過去に生きていていつも遅刻する。」(全員笑)その空き時間を司会者のソ・ヘソン作家がしゃしゃり出て代わりを務めている時、満面に微笑みを浮かべて彼が登場した。 今日の主題‘選択’について口を開いた。 金日成を専攻として選択した危険な歴史学者、普段から親友のソ・ヘソン作家が司会を担当すると知っていれば引き受けなかった‘誤った選択’であるインタビュー特講を彼は選択に関する軽い冗談として始めた。

"最も重要な選択、私たちの心の中に"

 ハン・ホング:歴史的選択で重要な点は選択の主体だ。 この頃は主語が重要ではないか。 (笑) 誰が選択したかも分からないままに後頭部を殴られる場合が一度や二度ではない。 1910年には国を奪われた。 それは誰の選択であったか。 歴史は長く見れば他人が侵害した自分の選択権限を取り戻す過程で発展してきた。 李明博政権の選択もまた、4年がすぎて権限を取り返す時期が到来している。 写真を一つずつ見て大韓民国の歴史的選択に関し具体的に調べてみよう。

 安重根、個人的には彼を‘偉大なテロリスト’と呼びたい。安重根の偉大さは果たしてどこにあるのか? 東洋平和論? 違う。 あえて言えば安重根の東洋平和論が福沢諭吉の東洋平和論と何が違うか。 安重根の偉大さは彼の選択から始まった。 安重根は伊藤博文を狙撃する時、一線暗殺組ではなかった。 彼は2線に配置されていた。 1線暗殺組は汽車が停車せずに通過したせいで暗殺に失敗した。 そして選択は安重根の持分になった。 1線で暗殺に成功したとすれば汽車はハルビン駅に入ってくるわけがなかった。 彼は直感的に知っただろう。 選択の瞬間だということを。 伊藤博文に向けた弾丸がはずれたとすればどうなっただろうか。 彼は自身の選択を完成するために伊藤博文に向けて3度も引き金を引いたし命中させた。 他の誰より元気な筋肉を持つ青年だった。

 光州(クァンジュ)民主抗争の選択が難しい点は、結果に責任を負わなければならないためだ。 真昼に軍服を着た人々が市民をむちゃくちゃに暴行し始める。 どんな選択をするべきか。 それがまさに1980年光州での選択の瞬間だった。 市民は銃を執り始めた。 これもまた選択だった。 独裁者 全斗煥の正規軍と対立するということは命をかけた戦いでもあった。 対立状況が長びき、また別の選択の瞬間が到来した。 銃器を回収して投降することが正しい選択であろうか。 実質的にゲームは終わった。 火力で見ても、何で見ても、精鋭軍との対立は死を意味したためだ。 1980年5月26日午後をすぎて27日明け方まで道庁に残った400人余りの市民軍が鎮圧された。 歴史で選択の最も重要な要因は何だったのだろうか? 皮肉なことに‘キニャン’(そのまま)であるケースが少なくない。 そのまま残ったことだった。 空っぽの道庁に全斗煥が笑って入ってくる、その姿を見るわけにはいかない人々が残ったのだった。

 歴史は数多くの選択の総合で現在に至った。選択が複雑か? 道が多く見えるか? 事実は道が複雑なのではなく心が複雑なのだ。 目的地さえ明らかならば道は結局みな通じているはずだ。 選択が難しいのは心が複雑なためだ。 責任を負わない瞬間に複雑になる。 問題は私たちが選択しない瞬間に、彼らの選択によって私たちの運命が決定されるという点だ。 私たちの心さえ変わらないならば選択は簡単だ。 最も重要な選択は私たちの心の中にある。

"親日清算を資本独裁の清算へ"

聴衆1:教師だ。学校で子供たちに歴史的に誇らしいことを尋ねればダグラス・マッカーサーを挙げる。 一緒に行きたい旅行先も米国の場合が多い。どのようにしたら良いか。

ハン・ホング:マッカーサー将軍についてカン・ジョング東国(トングク)大教授(社会学)と私の論文は結論がちょっと違った。カン教授は結論的に銅像をたたきつぶさなければならないということであったし、私の結論は銅像を見て息がつまるということだった。 マッカーサー銅像は誇らしいものではなく恥ずかしいものだ。 歴史で子供たちが恥ずかしさときまり悪さについて学ぶ必要がある。

聴衆2:シャルル・ドゴールの執権以後、ナチ協力者8千人以上を処刑した。 しかし我が国は外勢による解放で親日派清算がまともになされなかった。 親日清算の可能性はあるのか。

ハン・ホング:結論から言えば可能性はない。すでに終わったゲームだ。 しかし独裁の清算は可能だ。 さらに進んで現在は資本独裁を防ぐための方案が必要だ。 今になって剖棺斬屍(訳注:死後に大罪を暴き極刑に付すこと)して親日辞典を作るといっても、すべてのことが解決されはしない。そのことに意味ないというのではなく時代的課題が変わったという意味だ。 くやしくて仕方が無いが、時代が変わった。 高宗(コジョン)皇帝が生存していたとすれば、解放以後8千人を処刑することが可能だったかも分からない。 例えばインドは英国に200年間にわたり植民支配にあった。 しかしインド内で親英派清算について聞いたことがあるか。 8千人規模の清算は当代知識人の全滅を意味する。彼らが持った教育と才能を洗濯して国家が利用する必要もある。 不本意に日帝時代を生きていった人々も存在する。道徳的教化を通じて武装解除する必要がある。 親日だけに没入してはいけない。 李根安(イ・クンアン、訳注:拷問技術者)が親日派か? 時代的課題が変わったし、それに対応しなければならない。 くやしくて仕方ないが親日清算は軍事独裁清算と資本独裁清算に変わらなければならない。

聴衆3:60代だが投票をして利益を得たことがあまりない。 韓国社会の繰り返される失敗と絶望は果たして何のためなのか。

ハン・ホング:歴史を見ていつもこう考える。 民衆を支配しようとする彼らはどれほど大変だろうか。 サッカー競技で言えば、私たちは100対0から始まってここまで来たのだ。 韓国戦争以後、ほとんどすべての民族主義知識人が死んだ。 それでも4・19は起きた。 維新で抑えつけたが光州抗争があった。 1987年6月抗争まで続いた。 いわゆる‘7年周期説’で、7年ごとに韓国社会が変わるといって私が作った理論だ。 (笑) そのように雑草のように立ち上がった。 1990年3党合同以後、民自党は日本の自民党のように100年以上続くと予想した。しかし結果はどうだったか。 たった7年ぶりに政権が交替させられた。 歴史で民衆がやられたことだけ考えればあきれるが、反対に考えてみればそれでもここまで発展してきたと見ることができる。 その結果、ソウル市内の真中で今私たちがこのような話もできるのではないか。 (笑)

正修奨学会事態を知らせるためにツィッター開始

 ハン・ホング教授は最近、自身の避けられない選択に関する短い言及で特講を終えた。 正確に50年前の昨日(3月27日)から始まった正修奨学会事態に関し誰も本を書かないので、自身が直接飛び込むことにし、そのために一歩遅れてツィッターまで始めることになったという。 時には自分の意志ではなく避けられない選択が存在するということを身をもって体験しているとして不平を語る彼の顔には満面の笑みがこぼれた。

イ・ジョンジュ第23期読者編集委員

原文: http://h21.hani.co.kr/arti/society/society_general/31722.html 訳J.S