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[朴露子ハンギョレブログより] 私の「幸福論」

登録:2012-04-08 10:17
http://saint-juste.narod.ru/

原文入力: 2012/04/04 00:23(4974字)

朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

 近代が作り出した単語の中に極めて曖昧ながらもあまりにも包括的に使われている単語が一つあります。「幸福」がそれです。Happinessの訳語として東アジアに伝わってくるまでは、「福」の意味は概して明確でした。儒教の「五福」、すなわち長生きし、豊かに暮らし、健康で徳を好み施しをし平穏な死を迎える(寿、富、康寧、攸好徳、考終命)というかつての素朴な「幸福論」を覚えていらっしゃると思います。仏教の場合は、世の中を苦海と言って原則的に「幸福」の可能性を否定したりする一方で、同時に皆の苦痛、不幸を終わらせるためにあらゆるものを犠牲にする菩薩のイメージからそれなりの「幸福論」を見出すこともできます。皆のためにあらゆるものを犠牲にするその瞬間に真の意味のある種の幸福が得られるという論理です。と同時に、通俗化した東アジアの仏教における「幸福論」は儒教と大同小異でした。長生きし金持ちになり子を多く生み育て、爆死、非業の死、病死しないという「基本」の上に浄土往生が加わる形でした。しかし、死者が浄土往生したかどうかは私たちには確認できないため、結局その骨子は儒教と大差ないものになってしまいました。永く豊かに暮らし、人をあまり苦しめず、自分もあまり苦しめられず、多くの子供に哀悼されながら家で平穏に死にたい - 数百年間朝鮮半島の住民の多くはこの程度の希望を抱きつつ生きてきたわけです。

 資本主義の到来、農村共同体の解体、超高速な都市化と儒教的な大家族の解体、そして資本主義的な社会の階級化と新自由主義的な格差などといった、ここ100年間のあらゆる変化はこの素朴な「五福論」をちぎれちぎれに引き裂いてしまいました。今の大韓民国を振り返ってみましょう。このような社会で長生きすることは幸せでしょうか、災いでしょうか。一人暮らしで30~40万ウォンの基礎生活受給費でかろうじて生きている、幾多の捨てられた年寄りの方々に伺えば、その応えは聞かなくても分かります。かといって、豊かに暮すことは幸せでしょうか。「典型的な」江南(カンナム)族の家族生活を一度眺めてみましょう。双方の身分と財産に応じて「オーダーメード型結婚」をし子供を育てることを「計画商品」を作る工程のように認識し、子供との情緒的な共感を得られないまま、ただ(何の意味もない)「勉強」をさせるのに忙しく、子供の愛情不足をお金、プレゼント、旅行などで埋め、親、兄弟、夫婦同士で財産争いをし、不動産投機と「財テク」、そしてプロ野球やゴルフ以上の関心事もなく……。こうして生ける屍のように生きることを「幸せ」と呼ぶなら、「幸せ」とはきっと存在しないはずです。ともあれ、諂いや実績誇張、時流便乗、欺瞞なしには「出世」できないこのような社会で「徳を好む」限りは確実に「豊かに暮す」ことは不可能になってしまい、おそらく「平穏な死に方」もできそうにありません。こんな社会では心より「徳を好む人」なら、お金がなくて病院で手術も受けられずに貧困に喘ぎながら死んで行く確率は高いのです。にもかかわらず、「豊かに暮す」よりはこちらの方が、もしかすると真の「幸せ」に近いかもしれません。とにかく、近現代の矛盾と葛藤の中で「五福」は私たちにはかなり無意味になってしまいました。

 本人がどれだけ精進し、いかなる実践をしようと、生老病死の基本的な苦しみからは逃れられません。たとえば、他人より病苦から相対的に自由であっても、他人の苦しみを見ながら果して一人で幸福感を満喫できるでしょうか。そのため、不完全なこの娑婆世界に生まれた以上、「完全な幸せ」とは虚しい夢にすぎません。その一方で、私たちの相対的な幸福感は、私たちと社会との関係、そして私たちが生きて行く世の中の社会・経済・政治的な形態などにかなり左右されます。そのため、真の意味の相対的な幸福感だけでも味わおうとすれば、とりあえず私たちの生きている社会とはどんなものなのかを直視しなければなりません。釈迦が説いた八正道が正見、すなわち世の道理を直視することから始まり、後に正業すなわち正しい行動につながっていくように、マルクス・レーニン主義も「実践」に先立って理論というプリズムを通した「観察」がまず前提されなければならないと断言しているのではないでしょうか。社会の真実に対する観察無しにはいかなる幸せも不可能なのです。

 この社会は不平等と差別、排除で特徴付けられた、身分とお金の秩序である以上、基本的に加害者と被害者に分けられています。もちろん、集団的な搾取者である「自由民」と彼らを肥やす「国家の農奴」の間の結婚や交際などが不可能な、搾取者と被搾取者の身分が極めて明確な古代スパルタのような初期階級社会に比べれば、私たちの住む後期資本主義社会での被害者と加害者との境界は遥かにあいまいです。たとえば現代重工業のような大工場で非正規労働者たちを指揮・統率する正社員は果して何者でしょうか。彼の比較的高い年収が非正規職に対する超過搾取によって可能になるというレベルでは「加害者性」も持っているものの、実質的な労災率が20%に近い危ない作業場で特別勤務や残業などを含めて一週間に50時間以上汗を流し子供たちとの時間を過ごすこともできず、家族たちの不満を「お金」でかわし、会社の経営上の決定になんら影響を及ぼすこともなく、ただ上司の命令に従うだけの中年の家長を想像してみてください。この人は窮極的には非人間的で犯罪的な体制の被害者とみなければならないのではないでしょうか。正規の大学教授は被害者でしょうか、加害者でしょうか。実績をあげようとして「英語論文」の作成に明け暮れなければならないという次元では、半植民地的な学問システムの「被害者としての性格」もあるものの、1億に近い年収が幾多の非常勤講師たちの月100万ウォンかそれ以下の月給によって可能になったということを考え合わせれば、また別な側面も見えてきます。そのため、「被害者だ」、「加害者だ」とはっきりと線引きすることなど不可能ですが、本人がそのスペクトラムで「加害」の極点により近いか、「被害」の極点により近いか、自ら判断できなければならないでしょう。

 では、次の手続きは何でしょうか。一応、「自分一人」が幸い被害者の位置を脱したからといって、加害と被害のシステムで動く世の中が変わることはまったくないでしょうし、ただ「私」は加害者としての性格も併せ持つようになることははっきりと認識しなければならないでしょう。たとえば、ある非常勤講師が超人的な努力の上に幸運も重なって正規の教授になったからといって、昔の仲間たちに対する超過搾取はまったく消えることはないでしょう。違いがあるとすれば、本人も今やこの搾取により「得」をするということです。果してこのようにして真の意味で幸せになれるのでしょうか。搾取と不平等で経済的に裏付けられている学問は、本当に創造的で先駆的でありうるのでしょうか。むしろ「私は今や昔の仲間たちより優越だ」というふうな傲慢な自意識を持つようになる人なら、その思い上がりのせいで普通は学問的にも発展できなくなるというのが私の観察の一つです。つまり、外から見た場合、「被害者性」を一人で打開できるかのように見えても、それは皮相にすぎません。幸せになろうと思えば、「私一人」ではなく「私たちすべて」が幸せにならなければなりません。ここで敢えて大学という、極めて位階秩序的な社会の例でさらに話を続ければ、非正規の仲間たちと連帯し、非正規労組や非正規雇用の撤廃を求める進歩新党のような政党に加入し、できれば非正規職の闘争に参加したり連帯する道、「菩薩道」を連想させるこのような道は、むしろ心の中の真の幸せにつながるのではないか、と思ったりします。

 正直に申し上げましょう。私は個人的に以上のような道を歩むことができず、(多くの国内の人々の好む)「個人的な解決」を - 傍から見れば「成功的に」 - 成し遂げました。1997~2000年まで慶煕(キョンヒ)大学校という「学園財閥」の非正規教員として差別や搾取を受けてから、やっとオスロ大で正規職を見つけそこに行きました。正規の教授対非常勤講師の割合はオスロ大は慶煕大より4~5倍低い上に、非常勤講師たちの給料も授業準備手当てなども含まれており、国内より遥かにましなレベルである以上、誰かに対する搾取により好衣好食するという罪の意識は国内で教授をする場合よりは軽いかもしれませんが、全世界的に投資をしながら第3世界の資源を狙っているノルウェーという「第1世界の頂上に立つ国家」で暮らしながら福祉の恩恵などに与っている以上、私も「加害者性」を帯びていることにになります。そして被害者から「部分的な加害者」になったその瞬間から、私は一瞬たりとも「幸福感」を味わったことはありませんでした。身はどんなに楽でも心は地獄でした。プーチンの強盗政権下でほとんど生計が維持できないレベルの賃金を受け取る公共部門の医師や教師、常に白色テロの脅威に晒されながら生きていかなければならない左翼活動家たち、国内で何年も闘争しても解決されず、「死以外のあらゆる方法を取ってみた」というKTX女性乗務員や、才能教育の教師たちなど長期闘争の労働者たちや自殺を選ぶ非常勤講師(彼らの中には私が個人的に会った人もいました)たちのことを思いながら、ただ罪人として生きてきたという感じです。特に、豊かな町の場合は「貧しい」ロシアに対する軽蔑的な見解を持ち易く、ゲームの世界に「よくも」迷い込んでしまう現地の子供たちを見ながら、「私はどうしてこんなふうに生きていかなければならないのか」と深刻に悩みました。加害者としての罪の意識からノルウェーの政党の中で唯一ノルウェーの国富を第3世界の被抑圧民族たちと平等に分け移民を自律化させる政策を出した赤色党(共産党)に加入したり、国内の進歩新党に加入してたった今「比例代表に出馬」までしており、いくら資本主義の現実を暴く本を書き、いくら社会主義的な政党活動をしてみたところで、その「心の地獄」から逃れることは出来ません。私の個人的経験が他者に与えうる教訓があるとすれば、「部分的な加害者」になったからには、その罪過を相殺するために「私たち皆の」幸せに向けて努力しながら生きることはできるものの、基本的には押し寄せてくる極度の不幸感を脱することは極めて難しいということです。しかし、果してこの不幸感から必ず「逃れなければならない」のでしょうか。第3世界を搾取する社会に生きていることの対価だと思いながら、ただその対価を瞬間瞬間に払わなければならないと思います。この社会を去り身をもって被搾取者たちと連帯するまでは、ただこうして生きるしかありません。

 私が今まで会ってきた人々の中では、(私と会った頃は)指名手配中で後に監獄に入れられた宋竟東(ソン・キョンドン)詩人と今進歩新党の比例代表として私と一緒に出馬したキム・スンジャ同志のような非正規職の活動家たち、そして極右ファッショどもによってその名前が殺生簿に載っておりいつテロにあうか分からないにもかかわらず、絶えずプーチンどもとペンをもって闘争しているロシアのタラソフ同志(彼のサイトがこれです: )、このような方々が最も幸せに見えました。攸好徳、すなわち - 他の被害者たちと共に連帯して「私たちすべての幸せ」のために全身全霊で闘ってきたために - 徳を好み育んできたといえるからです。そのような方々は、たとえ場合によっては「楽に死ぬこと」ができず銃弾に撃たれたり監獄で病死したり貧困の中で死ぬことはあったとしても、まさに「幸福」を具現したのではないかと思います。

原文: http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/43546 訳J.S