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[朴露子ハンギョレブログより] 「見こみのない我々の望みが叶うように!」

登録:2012-04-01 06:56
http://en.wikipedia.org/wiki/Andrei_Sakarov

原文入力:2012/03/30 04:16(3068字)

朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

 最近知人たちは私にこんなことを尋ねたりします。「国内ではまだ階級政治のできる、急進的な労働運動の拡散のような前提條件も成熟しておらず、階級政党の支持率も依然として低迷しているのに、あなたは一体どうして見こみのないことにこだわって時間を無駄にしているのか、どうして出馬などをしたのか」。このような質問は、尋ねてきた人の意図とは関係なく、ある事実関係を正しく表していると思います。非正規の周辺化された労働者層の戦闘的な運動は「希望のバス」の成功を受けて大衆化し元気付けられてはいるものの、まだ労働運動の陣営は正規と非正規の組合が双方に分かれており、基本的に単位組合の組合員たちの経済的な利害を優先する守勢的な闘争に大きく偏っています。このような状況では、階級政党の成長は限界を抱えざるを得ないのも残念ながら事実なのです。しかし、にもかかわらず、あるいはだからこそ、益々階級政治を今行わなければならないというのが私の考えです。今はこれといった「成功」があろうがなかろうが、今後弱者たちが差別や排除の壁を越えるためにも私たちが「こやし」となり滋養分にならなければならないでしょう。

 70年代、旧ソ連の在野の人士の間で流行った表現があります。「見こみのない私たちの望みの成功を祈って乾杯しましょう!」というものです。実際にこう言いながら乾杯してお酒を飲んだそうです。現に自由主義的な在野の運動であれ、左翼的な在野の運動であれ、旧ソ連のいかなる反体制運動もまだ所期の目的を達成できていないわけでしょう。ソ連の資源と工場を盗みながら今「政府」を詐称しているプーチンの強盗たちは(選挙不正をやらかし、拷問や政治暗殺を利用して少数民族の独立運動を激しく弾圧しているという意味では)自由主義的でもなく、(「自由貿易」と民有化、福祉の漸次的な縮小などを指向しているという意味では)まったく左翼的でもありません。旧ソ連政権にも問題は多々ありましたが、たった今クレムリン宮殿を不法占拠している連中はあまりにも伝統性がない上、自分たちの懐だけ肥やしているという点においては、「政府」と呼ぶのも憚られるほどです。ところが、旧ソ連の「在野」が現実政治で失敗したとはいえ、彼らの抵抗は歴史の「こやし」になり一応世の中をもう少しマシな方向に変えることに役立ちました。たとえば、アンドレイ・サハロフ博士()などの出国自由化運動があったからこそ、今ではロシア人の多数は「自由な出国」を一応基本的人権として認識するに至りました。同じく、ソ連政権末期に左翼的な立場で政権を批判して「真のレーニン主義への復帰」を夢見たせいで、弾圧を受け監獄や精神病院に入れられたりしたカガルリツキ(http://en.wikipedia.org/wiki/%D0%9A%D0%B0%D0%B3%D0%B0%D1%80%D0%BB%D0%B8%D1%86%D0%BA%D0%B8%D0%B9,_%D0%91%D0%BE%D1%80%D0%B8%D1%81_%D0%AE%D0%BB%D1%8C%D0%B5%D0%B2%D0%B8%D1%87)やタラソフ(http://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Tarasov)などは、今もロシアの急進左派を理念的に率いています。彼らはソ連を「革命化」することには失敗したものの、彼らの抵抗は絶対に無駄ではなかったのです。虚しい抵抗というのは果して存在するのでしょうか。人が元々人間らしい実存を得るためには、不当な外部的な圧力に抵抗しなければなりません。抵抗は生命だからです。

 朝鮮近現代史も結局は同じ教訓を伝えているような気がします。ある意味では、1920~40年代の共産主義者たち、朴憲永(パク・ホニョン、1900~1956)や李鉉相(イ・ヒョンサン、1905~1953)、李觀述(イ・グァンスル、1902~1950)、李載裕(イ・ジェユ)、金台俊(キム・テジュン、1905~1949)、朴致祐(パク・チウ、1909~1949)のような方々は徹底して敗北させられたように見えませんか。日帝や南朝鮮の権力者たちの手によって殺されなかった人々は、結局マルクス・レーニン主義を脱して多少退嬰的で半封建的な「農民社会主義」へと回帰した北朝鮮の権力者たちの手によって殺されたのであり、その遺産も1980年代後半になって初めて南側で漸く日の目を見るようになったからです。もちろん彼らの政治的な失敗は一面においては「予定された」ところはありました。アメリカ帝国の軍事保護領に転落した南側ではいかなる組織的な階級闘争も許さない全体主義的な兵営国家体制が敷かれたのであり、民衆的な変革を経た北側でもマルクス・レーニン主義的な路線を辿るに足る大衆も活動家層も残念ながら成熟していなかったのです。朝鮮の偉大な共産主義的革命家たちは帝国主義の抗し難い「力」と大衆の「未成熟」という二重の「壁」にぶつかってしまいました。一言で言えば、彼らは戦いの中に死ぬようになっていたのです。しかし彼らの痛ましい死は果して虚しいものだったでしょうか。まったくそうではありません。申香植(シン・ヒャンシク)先生などの南民戦の戦士たちも、社労盟の戦士たちも、自分たちのことを李鉉相のパルチザンたちの「後裔」と見做し、自分たちの急進的な運動を朝鮮の共産主義的運動の延長線上で捉えたのではないでしょうか。たとえかなり穏健になったとはいえ、後世の革新政治家、在野の人士たちに影響を与え、李承晩たちの手によって悲劇的に殺された曺奉岩(チョ・ボンアム、1894~1959)先生のような方々も、結局1920~30年代の共産運動の「後裔」ではなかったでしょうか。全評(朝鮮労働組合全国評議会の略称)の強制解散と活動家たちに対する弾圧、大韓労総という反動的で反労働者的な団体の成立により植民地時代の労働運動の伝統がかなり色褪せてきたものの、それでも後世の労働者たちに手本となった1950年代の紡織工場におけるストライキなどはあくまでも共産主義者たちが率いた植民地時期の労働運動の伝統を受け継いでいました。金日成が朴憲永を殺し李承晩が李鉉相を殺しても、無階級社会へと向かう彼らの精神をいかなる権力者も殺すことはできなかったのです。

 私たちの人生は短いものですが、抵抗の歴史は長く長く流れていきます。私たちは私的な企業王国である財閥と無権利の非正規労働者、「例外のない徴兵制」、悪徳企業のように学生たちを搾取する大学企業らとそれらとまったく類似した医療企業である私立病院のない、福祉と公共性優先の韓国を実際に目で見られなかったとしても、その運動をまた誰かがどうせやり続けることでしょう。左派政治という名の抵抗は、必ずしも「勝つ」ためにやっているわけではありません。人間らしく生きるためにやるのです。現実でどんなに負けようが、結局歴史の審判で勝つことができるのです。

原文: http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/43063 訳J.S