[金東椿(キム・ドンチュン)の暴力の世紀 VS 正義の未来](5217字)
正修奨学会事件を通じてみた万能権力の私有財産強奪史
時間が過ぎたからと暴力的不法戦利品を認める居直り強盗の社会
去る2月24日ソウル中央地裁は「正修奨学会が‘強圧による財産献納’で作られたものであるので‘国家の損害賠償責任’がある」と認めた。しかし時間があまりに経過しているため原所有者の強制献納取消権請求時期は過ぎたと結論を出した。 すなわち正修奨学会が贓物であることは認めるが、原所有者が奪われて10年以内に請求をしなかったために彼らに返さなくても良いというのが裁判所の判断だ。
←ソウル中央地裁民事合議17部が去る2月24日午前、故キム・ジテ氏遺族が正修奨学会を相手に出した株式返還請求訴訟で原告の請求を棄却した。 故キム・ジテ氏の次男キム・ヨンウ氏が判決を受けて出てきて取材陣の質問に答えている。 ニューシス
ホロコースト、ユダヤ人財産略奪行為
正修奨学会の前身である釜日奨学会の原所有者キム・ジテ氏は自叙伝で「放棄覚書は中央情報部地下調査室で手錠をかけられて強制下で書いたもの」と明らかにしたが、この事実は国家情報院真実委員会と真実和解委員会の調査ですでに確認された。 1962年5月当時、朴正熙軍部クーデター勢力は釜山の有力な企業家キム・ジテ氏が不正蓄財および脱税の疑いがあり‘革命事業に非協調的’という理由で捕らえ、彼が所有した<釜山日報>と文化放送、その他財産を献納する条件で直ちに釈放した。その時、軍部は国民の支持を得て権力奪取の正当性を確保するために‘不正蓄財’企業家を捕らえることはあったが、ただキム・ジテ氏の釜日奨学会だけから強制献納を受けた。 キム・ジテ氏が中央情報部で放棄覚書、寄付承諾書を書いた後に直ちに釈放されたことから見て、色々な証言が示すように朴正熙は権力維持のために釜日奨学会が所有した報道機関に関心を持っていたようだ。 結局軍部は企業家の私有財産を略奪し5・16奨学会、すなわち今日の正修奨学会を作ったし、結局今日まで文化放送と<釜山日報>が事実上 正修奨学会の所有となって朴正熙の最側近が理事陣に布陣して朴正熙の娘である朴槿恵が理事長として在職し莫大な報酬を受け取ることになった。
‘本人同意’という形式を備えていようが、あるいは最初から露骨な横領、強奪過程を経ようが、絶対的な権力を持つ集団が自身の政敵、もしくは弱点があったり社会的に完全に排除された者の財産を奪取することは珍しくない。 戦争と革命など暴力はいつも無差別的財産略奪を伴い、また歴史を見ればほとんど国家や政治、軍集団は経済的動機、すなわち財産略奪のために戦争を行って権力を掌握したりもする。 国家や公式政府機関はもっともらしい手続きと名分を掲げて合法を装いながら強奪をするが、現場の軍や警察要員は戦利品を得たように喜々として露骨に個人の腹を満たしたりもする。 このように見れば朴正熙軍部勢力の釜日奨学会奪取はこの公式から全く抜け出ない。
ナチのユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)はそれ自体が巨大なユダヤ人財産略奪行為であった。 ナチ下のドイツは‘受託庁’という機関を作ってユダヤ人所有のデパートを荒らし高級住宅を接収した。 そしてユダヤ人をゲットーに追い出した後そこにまで入り貴重品を奪った。 その過程でゲットー内に常駐していた刑事警察官が自身の有利な立場を活用してユダヤ人が持っていた金や貴重品をむやみに略奪した。 20世紀の最も淫らな歴史の一場面だった。 1980年代スハルト統治下のインドネシアでも秘密警察は反政府人物を探し出すという名分の下に街頭暴力団を保護したり、彼らとグルになって「暴力を経済的富に転換させた」。
韓半島でこうしたことは19世紀から今まで続いている。 東学軍を討伐する時の官軍がそうだった。 討伐をするという名分の下に官軍は東学軍を虐殺し、彼らの家と土地を没収した。当時の駐韓日本公使館は「朝鮮人民が最も嫌いなのは朝鮮兵士です。朝鮮兵士は行く先々で人民の物品を略奪し彼らの処置に従順でなければ殴打して実にその乱暴さは言語道断です」と報告した。
西北青年会<済州新報>を奪う
ところで解放後の1948年4・3事件に前後して、済州島(チェジュド)でもこうしたことが蔓延した。 共産軍討伐のために済州島に投入された警察保護下の西北青年会などは定期的な収入がなかったので恐喝・わいろ授受・詐欺などをはばかることなく日常的に行った。 彼らは太極旗や李承晩の写真などを住民たちに売り付けたり、呼応しない人々には後で報復したりもした。 わざと暴力的・非倫理的に行動して財産を捧げるように誘導することもした。朴正熙勢力の釜日奨学会強奪と類似した事件もすでにこの時に発生した。 済州道西北青年会のキム・ジェヌン団長が済州地域の唯一の報道機関<済州新報>を強制買収した事件がまさにそれだ。 当時、彼は済州道で絶対的な権力を振り回した。 金品恐喝や拷問はもちろん、殺人と婦女子凌辱まで日常的に行った。 彼は物品をよこせと強要し、拒絶されるとすぐに済州道総務局長キム・ウヒョンを事務室に引っ張っていき殴り殺した。1949年の初め、2連隊2大隊の主導の下、西北青年会と警察などが総動員された奉蓋里作戦があったが、この時、多くの住民たちが無念な犠牲になった。ところが彼らは言論が‘正当の軍作戦’として扱わなければならなかったのに、自分たちの役割をきちんと扱わなかったとケチをつけて新聞社に乱入した後、キム・ソクホ社長を殴打して半殺しにした。結局<済州新報>を強制的に接収したキム・ジェヌンは西北青年会 特別中隊員キム・ムクを編集局長に座らせ自身は社長の席に上がった。
朝鮮戦争を前後して軍討伐作戦の時、一部の軍と警察、右翼団体は附逆者、左翼、あるいは罪のない民間人の財産を奪取し、あたかも自分のもののように使った。 1949年8月12日慶北(キョンブク)、霊泉(ヨンチョン)では警察が同じ門中の人々が入山して左翼に協力したという理由で、入山したキム氏の祖母を代わりに射殺し、キム氏一家の家屋に火をつけ財産を没収した。 慶州、内南面(ネナムミョン)で民保団長として活動したイ・ヒョブは以後自由党の民議員になったが、彼は戦時に内南面(ネナムミョン)でチュ・ヨンブ氏が左翼として警察に捕えられるや団員をしてチュ氏の老父母、妻、娘、甥姪など計5人を部屋に閉じ込めて焼き殺した。 また、クォン・チャンヒョクとチョン・ギヘの家をアカだという理由で強制的に破壊し、家の材木を持ち去った。イ・ヒョブの弟イ・ハンウは月山里のクォン・チャンスルの弟がアカだと追い詰めた後、彼の財産を略奪した。
韓国戦争中、嶺湖南(ヨンホナム)の山間地帯討伐作戦に投入された11師団軍人も4・3事件の時に済州島で警察と西北青年会が行った暴力と略奪を全く同様に繰り返した。慶南(キョンナム)居昌(コチャン)で民間人大量虐殺を犯す直前の1951年初め、第3大隊は居昌に駐留する間に米300石、薪300坪(訳注:6尺立方)余り、副食90万ウォン分を無償で徴発し、作戦上の理由で居昌郡(コチャングン)、北上面(プクサンミョン)の民家1200世帯余りを燃やし、そちらの住民が育てていた農牛は奪って食い、米は軍用トラック2台で搬出し居昌市場で売り払った。 同じ11師団の軍人は1951年1月、全南(チョンナム)、羅州(ナジュ)のトンチャン橋近隣で住民を虐殺した後、人家に押し入り牛豚、家具を片っ端から略奪していった。
←ドイツ ナチのユダヤ人大量虐殺はそれ自体が巨大なユダヤ人財産略奪行為であった。 ユダヤ人をゲットーに追い出した後、そこにまで入って貴重品を奪った。 実話を土台にした映画<ピアニスト>の一場面. ハンギョレ資料写真
‘逆産物資’という名の下に奪取
このような財産略奪は補給品がなかった当時の実情で軍規がきちんと維持されなかった末端の軍、警察の逸脱的行為と見ることもできるが、公権力が公然と財産を略奪する事例も多かった。 1950年9・28収復直後、特務隊(CIC),警察、右翼治安隊などによる反逆者財産奪取事件がそれだった。 当時キム・チャンニョンが指揮した特務隊も越北者や反逆者の家を公然と占拠して無断で使ったり私腹を満たしたし、警察は避難して主人がいない家を占拠して「○○はアカだから戻ってきたら捕えて殺す」として財産を奪取した。もちろんソウル市警察局長やチョ・ビョンオク内務部長官は「反逆者が居住した家屋にその家族が居住するにも関わらず、その家族を追放して強制占領することは共産党の蛮行と同じ不法行為」と警告したし、チョン・イルグォン戒厳司令官も「個人財産を不法占有した者は極刑に処す」と発表はした。 しかし‘逆産物資’は軍警が公式に管理したので、地方で‘閻魔大王’の権力を持つ軍警は戦利品の略奪を防げなかった。
当時収復の後、京畿道(キョンギド)高陽(コヤン)では警察と部落治安隊が反逆者とその親戚らの財産に対して‘逆産没収’を決めて、警察官,義勇警察隊員,時局対策委員会要員が出て行き財産を没収した。 1950年11月5日までに時局対策委員会が家産を没収した件数は50件余りであり、価格にすれば2千万ウォン程度であった。 家具と衣類などだった。彼らは差し押さえた物は木材倉庫に入れておいたが、倉庫の鍵は警察の捜査係刑事が持っていた。 当時「財産を没収された家族に布団と冬の衣服でも出してやれば良いだろう」という呼び掛けがあったことから見て、反逆者に名指しされた人々は命を失ったり財産を奪われ、さらに寒い冬に着る服さえ得られなかった。このような警察と治安隊の行為はきわめて野蛮で残忍だった。
強制的に接収した財産は公的に管理・分配されたのではなく戦利品として扱われ末端軍警の腹を満たした。 一部だが附逆の疑いから抜け出した人々が以後に自分のものを返してほしいと要求するや問題が発生した。当時政府は附逆者帰属家屋に対して‘臨時入居証’を発行していたが、入居証所有者の大部分は軍人だった。高陽の場合も以後に家財道具一部を返したが、治安隊と班長が分け合ったり売り飛ばしたものもあった。
ところで動産の場合はこのように勝者が勝手に分配した後に隠してしまえば事実上終わりだが、不動産は簡単ではなかった。 警察や右翼が附逆者と左翼の家や土地を無断に占拠し長期にわたり地域社会の権力者として君臨したので、かろうじて命だけを持ちこたえた犠牲者家族はあえて所有権を主張できなかった。 高陽の場合、被害者キム・ドンファンは村を離れて全北(チョンブク)、群山(クンサン)で暮らしたが、高陽に戻ってみると家と家財道具をすでに誰かが占有していた。 1985年頃、本家の従兄弟が財産返還訴訟を起こしたが敗訴した。 高陽の有力者だったが左翼・附役活動にかかわってほとんどすべての家族が虐殺されたアン・ジョムボン家の財産は近隣のユ氏家族によって占有された。1992年アン氏の残った家族が財産返還訴訟を提起したが、裁判所はユ氏が20年間占有し‘時効取得’したとし敗訴決定を下した。
“なぜその時 黙っていたのか”と言う公権力
今日、正修奨学会が強圧によって奪取された財産であることを認めながらも所有者がなぜ事件以後10年間に返還を請求しなかったのかと問い直す裁判所の判断は、高陽の遺族たちが要求した返還訴訟に対して時効が過ぎたので取り戻せないとした過去の裁判所の決定と同一だ。 国家あるいは国家の保護を受けた公権力の強奪を民事上協約による譲渡と同一に見ているわけだ。‘敵の財産’、主人のない財産を国家が接収することはできる。しかし、それは法に基づいて透明に公的に管理され、あるいは使われてこそ当然だ。 そして暴力で奪取したのなら時効を適用せずに戻させなければならない。 ところで韓国の公権力は弱点のある人を殴り倒し半殺しにして、詐欺犯・アカの烙印を捺して息もできなくしておいて、歳月が流れて彼とその家族が財産を返してくれと言えば「なぜその時に権利を主張しなかったか」と居直り強盗のように問い直す。 暴力行使を通じて権力を握った強者が不法に戦利品を奪取しても時間が過ぎれば被害者は抗弁できないという話だ。
キム・ドンチュン聖公会(ソンゴンフェ)大社会科学部教授
原文: http://h21.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/31530.html 訳J.S