[金東椿(キム・ドンチュン)の暴力の世紀 VS 正義の未来](4716字)
国家が先頭に立った‘集団除け者’の韓国現代史
冷静な傍観者となることを生存戦略とした大衆
昨年末、韓国社会は大邱(テグ)の14才の少年の自殺に大きな衝撃を受けた。 全国が加害少年のおぞましい犯行に戦慄した。自殺した少年の遺書が公開された後、警察は捜査を通じて加害者が昨年3月から少年が亡くなるまでの数ヶ月間、自分たちのゲーム キャラクターを育てるよう強要し、‘水拷問’をしたり‘電気コードを首にかけて菓子のかけらを拾うこと’を強要するなどの苛酷行為と暴行を繰り返していた事実を明らかにした。 韓国の学校暴力は過去の‘いじめ’、すなわち仲間外しの水準を越え、もはや日本式の‘いじめ’、すなわち強者が集団内で標的とされた弱者を関係から疎外させる水準に留まらず、集団暴力を加えて死にまで追い込む水準となった。
討伐の第一原則、匪民分離
精神科専門医イ・ナミ博士によれば、学校に加害集団または、不良学生集団が別個に存在するわけではない。 今日の加害者が明日の被害者になったりもするということだ。 加害者の暴力が繰り返される重要な理由はまさに暴力状況での傍観者、正確に言えば多数、すなわち締め出す側に立つ暴力の暗黙的同調者がいるためだ。 一人の力の強い学生が暴力を行使する中心に立てば、他の学生たちは彼の不当な行動を知りながらも顔色を伺い大勢に従う。 中間に立って暴力を制止する学生がいなくなることによって強者の暴力がろ過されずに行使されるわけだ。 暴力に対して批判したり制止する義人がいないのはもちろん、大多数が強者の力と雰囲気の圧力に勝てず加害者と一緒になって被害者に後ろ指を差し‘お前は殴られても当然だ’と大声を出す始末だ。 暴力が蔓延するためには加害者と同じくらい暗黙的同調者、あるいは傍観者の役割が大きい。
学校は小さな社会だ。 大邱(テグ)など各地で発生した学校暴力や自殺事件は国家や地域社会で自分も除け者に遭うのではないかと思う恐怖感と不安感のために強者の不法で不当な暴力に同調したり、自分から出て行き暴力を加える隣人を想起させる。
すべての社会にはこういう‘集団仲間外し’がある。 人種・地域・宗教、一つの社会の多数者は制度・慣行・意識を通じて少数者を差別し締め出す。 しかしすべての仲間外しが暴力を伴うわけではない。 画一的価値、厳格な位階、集団性が著しく強調される場合、強者の暴力が弱者に無慈悲に行使される傾向がある。 ユダヤ人は大量虐殺(Holocaust)事件以前にすでにドイツやヨーロッパ諸国で永らく仲間はずれにされてきた。 大量虐殺はその延長線上にあった。 すなわち、仲間外しは国家が先に始めた。 国家がある単一な国民、すなわち忠誠心あふれる集団を設定し、そこから外れた人々を異邦人、危険分子、あるいは敵と烙印し、社会構成員をして彼らを告発させ足で蹴れと扇動した。
1948年、全南(チョンナム)、麗水(ヨス)順天(スンチョン)事件直後、軍警討伐の第一原則は‘匪民分離’、すなわちパルチザンと民間人を分離させる作業だった。 当時、討伐軍は住民たちを大韓民国の統治圏内に服属させるために住民たちどうし、互いに共産党の悪口を言いながら殴らせた。 また、住民たちを集めて現場で手本として数人を殺害した後、住民たちに両側に対する明確な立場を要求したという。 その時、討伐作戦を引き受けた12連隊長は、全南、求礼(クレ)地域で住民たちを集めて演説し「左か右かはっきりしろ。中途半端ではっきりしない人間は必要ない。 そんな人がどうなるか見本を見せる」として数人を殺した。このおぞましい現場を体験した住民たちは自分が生きるために何の問題もない人をアカとして告発するようになった。1980年代まで続いた‘隠れスパイ検索’の歴史はここに始まる。
国家に代わって隣人が暴力を加える
軍の左翼名指しとみせしめ虐殺、すなわち隣人間でも敵と思われれば容赦なく申告させ処罰を命ずる討伐軍の原則は、国家の統治方式に留まらず、特定部類の人を社会内の危険な存在、スパイに間違いないという理由で、ひょっとして隣人がそのような存在ではないかを相互に監視し疑わしければ告発し、明確にそのような存在と確認されれば国家に代わって隣人が直接暴力を加える方式として作動することになった。
韓国戦争期間にこのような国民総スパイ探索、スパイ除去キャンペーンが最も深刻に現れた。 国家が公式に烙印した左翼は殺されても訴えるところがなく、彼らの財産が隣人に奪取されても声も出せず、婦女子は強姦されても構わない‘人ではない’存在になった。 パク・ワンソが小説で描いた彼の家族の姿のように、すなわち家長である兄によって家族全員が反逆者にされたためだ。
“私たちの存在自体が社会不安の要素であった。除去されて当然だった。” “アカの命が人命と同じであるはずがなかった。 …彼らは私をアカ女と呼んだ。 アカであれ、アカ女であれ、その言葉さえ聞けばもはや人ではなかった。人ではないため令状だろうが何だろうが人権を主張することもできなかった。 …彼らは私をあたかも獣や虫ケラのように眺めた。虫ケラのように這った。 …アカの命はハエの命にも劣ったし、アカの家族もまた虫ケラに相違なかった。”(<あのたくさんのシンア(酸い葉)は誰が全部食べたのだろうか>)
隣人たちはパク・ワンソの家族を‘アカと名指しして’‘虫ケラのように取り扱う’恐ろしく冷静で残忍で同情心のない存在であった。 その隣人たちは権力に言われるままに、彼らが言い次第、彼らが送る信号によって機械的に動く、まさに国民であった。 大統領と政府の話をそのまま信じて疎開しようとは考えもしなかったところ、突然に付逆者にされたソウル市民に対する保証を拒否するその隣人たちの非情さがまさにそうであった。 全く情状参酌さえする余裕もない権力を批判するどころか、市民証と渡江証の所持が‘生命保証書’だった時期に、彼らにそっぽを向いたのが隣人たちだったということだ。
ところがパク・ワンソはそのような隣人たちを憎悪するより、自身も彼らと同じ存在だとして彼らのすべての行為を認めた。 叔父が無念に処刑されても遺体を探しに行くこともできなかった自己の卑怯さを考え“生きるための選択はどれほど非人間的でも正当だった”と被害者であり、また同時に冷酷な隣人となった自分自身の行動を合理化した。
かつて悪名高い国家保安法上の不告知罪条項は隣人や親戚の誰かが‘敵’あるいはスパイになったのを見ても申告しなければ敵として扱われるうるという論理を法制化したものだ。 不告知罪によれば“罪を犯した者(反国家団体や国外の共産系列の利益になるという点を知りながらもその構成員または指令を受けた者との会合、通信、その他方法で連絡をしたり金品の提供を受けた者)を認知しながら捜査情報機関にこれを告知しない者は5年以下の懲役、200万ウォン以下の罰金に処する。 ただし本犯と親族関係がある時にはその刑を減軽または免除することができる" とされている。中立はなく、傍観は罪だった。
国家が触発した社会暴力の無限反復
隣人の監視と告発、暴力は国家が初めボタンを押した後は自動的に繰り返される社会暴力だった。アカと名指しされた人に指差したり暴力を加えることは事実愛国的行動ではなく、自身が将来アカと名指しされまいとする生存のもがき、群れの中に挟まれて生命を保全しようとする戦略だった。 そうしなければ暴君に憎まれて自身も標的になりえたためだ。 同情は禁物だった。
国家の暴力がより恐るべき状況で社会暴力、左翼に分類された隣人に対する集団仲間外しと露骨な暴力行使は深刻になる。 人民革命党再建委員会事件の家族に加えられた集団仲間外しが代表的だ。 ハ・ジェワンの末の息子は4才の時に村の子供らが木に縛っておきスパイの子だとして銃殺させるいたずらに遭い、次女は小学校2年の時に遠足に行き子供たちがスパイの娘だとからかって弁当に蟻を入れて追い回し石を入れられもした。息子が見合いする時も相手側の人が「お前に私の子供を嫁がせるよりはいっそ金日成と結婚させる」と言われた。 ソン・サンジンの娘は教師が課外を受ける学生を集めてくれれば君は無料にしてあげると言っておきながら、実際には彼の娘には課外を受けさせないという差別を受けた。 ナ・ギョンイルの場合、町内の人々がここに‘アカのボス’が暮らしているとは思わなかったと言いながら、彼の家族を避け通したし、近くの親戚らも不利益を受けるかと思い怖がって彼の家に来ることを敬遠した。 ハ・ジェワンは家の塀に‘スパイだ。 殺せ’という落書きが書かれ続けたという。 ウ・ホンソンの家族は新しく引越しした時、家に訪ねてきたお客さんに家の前の旅館の主人が“この家がスパイの家”と言って締め出される目にも遭った。こうしたことを体験したイム・グホの父親は「他人の空の下(日帝治下)で暮らしても、これほど苛酷ではなかった」と話した。 ある捏造スパイ事件の被害者の息子は、アカの子供という理由で学校から自ら退学しろと言われ、1ヶ月にわたり一日に棒で50回ずつ殴られたケースもあった。
このように国家の暴力は一瞬にして行使されて終わるが、隣人すなわち社会の暴力はより残忍で耐え難いものだった。 中央情報部で拷問に遭い死亡したチェ・ジョンギル教授がスパイの疑いを受けて調査を受け自殺したという事実が知らされると、ソウル大法科大学の同僚教授の中で彼が本当にスパイなのかと尋ねるどころか「スパイの遺族に何が弔意金だ」として弔意金を出すことを断った方もいた。 彼をスパイだと発表するや知人たちは一切の連絡をせず遺族にそっぽを向き、彼の夫人も彼らに被害を与えてはと考え連絡を慎んだ。
中国の著名な学者、季羨林は文化革命期に北京大学を牛耳っているといわれた‘閻魔大王’に反旗を翻し、謀略に嵌められ残酷な苦痛にあったことを回顧した。彼はこの期間に‘不可触’反革命分子になった。 当時周辺の人々は反革命分子の家に縄を打ったりもしたが、彼はそこまでの除け者に遭わなくても以前にはぺこぺこしていた人々が顔も見ずに黙って通り過ぎて行く侮辱を受けた。
所信の立つ場所がない社会
日本学校のいじめ現象を研究した増淵は“集団的一致、一元的競争価値を追求する日本社会がいじめを作った”と指摘した。 韓国は国家がすべての構成員に‘反共主義’という一つの価値に従うよう公開的に要求して、敵と味方を区分し、左翼あるいはスパイと名指しされた人を人間として取り扱わないよう公式化することによって、恐怖で真っ青になった中間地帯の隣人たちが標的となった人を交流範囲外に追い出してしまった。
ところで今は国家暴力は後退したが社会暴力、すなわち学校暴力が本格的に現れている。 昔も今も個人の所信の立つ場所がない社会、中間的位置づけを堅持する人間に立つ瀬がない社会、暴悪な権力の前で自身の主張を展開すれば一緒に仲間外しにされる危険がある全体主義、集団主義社会で社会暴力は荒れ狂う。
聖公会(ソンゴンフェ)大社会科学部教授
原文: 訳J.S