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維新の肉体と光州(クァンジュ)の心を持つあなたに

登録:2012-01-28 08:14

原文入力:2012/01/27 21:47(6065字)

ハン・ホング(韓洪九)の維新と今日①連載を始めるにあたり
その時期を知らない20・30代には犬に乗っていた北満州原野の話
新しい未来か過去回帰なのか、総選挙・大統領選挙の選択を前にして
70年代残酷史を振り返る

←1970年代末チャ・ジチョル(車智澈)大統領府警護室長(前列右側)とその部下であった全斗煥(前列中央)作戦次長補と盧泰愚(前列左側)行政次長補。全斗煥と盧泰愚は80年代の新時代を標ぼうしたが、朴正熙が使った政策を繰り返した。

 2011年12月30日キム・グンテ(金槿泰)が息をひきとった。 キム・グンテには70年代を通じて‘公訴外’という別称が付いて回った。 キム・グンテは1971年11月チョ・ヨンレ(趙英來)、チャン・キピョ(張基杓)、シム・ジェグォン(沈載権)、イ・シンボム(李信範)らの友人が‘ソウル大生内乱陰謀事件’というすさまじい罪目で起訴された時、幸いにも検挙をまぬがれた。‘公訴外’という荷札を付けて潜水を始めたキム・グンテは朴正熙が死んでようやく世の中に出てくることができた。 キム・グンテが名前を隠したまま激しく70年代を送っている時、イ・クンアン(李根安)もやはり絶頂の毎日を送っていた。 1979年3月17日イ・クンアンはイ・ソクウという仮名で朝鮮日報社長パン・ウヨンから第13回青龍奉仕賞忠部門本賞を受け取り警衛から警監へ1階級特進した。 イ・クンアンは続いてスパイを検挙した功労で賞を受けたが、事実はそのスパイは殴られてもどこへ行っても訴えるところがなく、貧困で学校へ行くことも出来なかった北に拉致された漁夫だった。

キム・グンテの維新時代とイ・クンアンの維新時代

 キム・グンテは拷問後遺症で病状が悪化し昨年12月10日に挙行された娘の結婚式に参加できなかった。 その心残りの多い結婚式の2日後である12月12日<ハンギョレ>はイ・クンアンがその年2月にある週刊誌と行ったインタビュー内容を一歩遅れて掲載した。 牧師先生イ・クンアンは自身は拷問技術者ではなく‘尋問技術者’だとして、国家保安法違反事犯に対する尋問は‘論理で自身を防御しようとする者と、それを打ちやぶろうとする捜査官との激しい頭脳戦’の連続であり‘一つの芸術’だと強弁した。 イ・クンアンはその時に再び戻っても同じ仕事をするとしながら自身の行為を愛国だと主張した。

 2012年は国会議員総選挙と大統領選挙が行われる年でもあるが、朴正熙の‘10月維新’という親衛クーデターが挙行され満40年になる年でもある。 40年と言えば、日帝が我が国を強制占領した期間よりさらに長い期間だ。その永い歳月が流れたが、朴正熙の亡霊は昼夜を分かたず韓国社会を徘徊している。 そして2012年の大統領選挙で、その時その時節の‘維新王女’は保守陣営の不動の大統領候補として出てくるだろう。

 今この瞬間、維新時代を語るということは過ぎ去った過去の歴史を暴くばかりではない。 今韓国社会の保守勢力の中でイ・クンアンを擁護する者は珍しいが、それはイ・クンアンが‘運が悪く’引っかかってその悪行が白日の下に暴露されたためだ。 イ・クンアンは独りで70年代を生きたわけではない。 ‘愛国’の名で‘芸術’活動をした数多くのイ・クンアンはアカの天地になったこの世を嘆く愛国老人として生きていて、高いところで隠密にイ・クンアンの芸術行為を後援し鑑賞した者は民主政権10年を過ごしても依然としてこの社会のヘゲモニーを掌握している。さらにみじめなのは一時は維新体制と対決して、光州虐殺の元凶らと激しく対抗した者が今は虐殺者に根元を置いた政党に身を置いて朴正熙と李承晩と親日派を擁護しているという点だ。 李承晩-朴正熙-全斗煥体制は数多くのイ・クンアンがいなかったら、一日も支えられない体制だったのにということだ。

毎年が転換期であり毎日が激動期であった70年代

 しばしば維新時代と呼ばれるパク・チョンヒの最後の7年間は構造的に今日の韓国を作った時期であった。 民主化10年はこの問題多い構造物を変えてみようとテコを差し込んだだけで構造物を変えることはできなかった。

 韓国の現代史はまさに激動の現代史であった。 100年前に国を奪われた韓国はいつのまにか世界10位圏の経済力と軍事力を持つ国に成長した。 人類の歴史で近現代は人々をジェットコースターに乗せて我を忘れて揺さぶりまくった時期であった。 ‘圧縮近代化’を体験した私たちが乗ったジェットコースターは他のジェットコースターに比べて何倍も速い速度で上下動を繰り返した。 韓国現代史は毎年が転換期であり毎日が激動期であった。 1年に何度も‘○月大乱’説が広がらなかった年はなかった。 本当に多くのことが行なわれた韓国現代史で朴正熙は何と18年という(のは)期間を執権した。 朴正熙が死んで突然登場した全斗煥とその後に続いた盧泰愚は朴正熙の近衛兵出身だった。 全斗煥は新しい時代を標ぼうしたが、事実は5・16軍事反乱直後に朴正熙が使った政策を反復した。 朴正熙が軍部内に精魂を込めて育てた私的組織、ハナ会出身が要職を一人占めしたまま朴正熙なき朴正熙体制は長く続いた。

 民主化されたわけでもなくされなかったわけでもない、暗鬱だった過去を清算したわけでもなく清算できないわけでもないままに歳月は流れた。 嶺南(ヨンナム)軍閥の最後の相続者 盧泰愚と朴正熙・全斗煥勢力のふところに抱かれた一時の民主闘士 金泳三が5年ずつ10年、大統領になるために朴正熙勢力の一部と手を握るほかはなかった金大中と現実の朴正熙の後えいとは絶えず妥協したが、過去の朴正熙を清算しようと考えた不幸な大統領 盧武鉉がそれぞれ5年ずつで10年、そして朴正熙式高度成長時代の寵児として登場し、国家を完ぺきに私物化した李明博がまた5年この国を統治する間に‘87年体制’の生命力はもはや完全にすっかりなくなってしまった。 6月抗争の頃、自身を中産層だと考える人々が60~70%に達した時と、国民所得2万ドル、貿易規模1兆ドルを突破したが国民の半数近くが自身を下層民だと考えている現在の韓国とは全く違う社会だ。 2012年は総選挙と大統領選挙が同時に行われるという意味からでなく、87年体制の動力が減少したという点で保守政権と民主政権を揃って体験してみた私たちに新しい体制を作り出すことを要求している。

←1972年9月11日、ソウル大生内乱陰謀事件控訴審結審公判に立ったキム・グンテの同志たち。左からシム・ジェグォン、チャン・キピョ、イ・シンボム、チョ・ヨンレ(上写真)。写真出処<70年代キャンパス>。1979年3月18日付<朝鮮日報>。 前日イ・ソクウという仮名で朝鮮日報社長パン・ウヨンから第13回青龍奉仕賞忠部門本賞を受け取り1階級特進した拷問技術者イ・クンアンの便りを伝えている(下写真)。

維新体制- 87年体制- 2012年体制

 金大中政権と盧武鉉政権は基本的に1970,80年代の民主化運動勢力が執権したものと言える。 民主化運動勢力の執権は2007年の大統領選挙で民主陣営の候補が李明博を前面に掲げた保守勢力に530万票という歴代最多票差で完敗して終わった。 そして4年が過ぎた今、20,30代の怒りは天を刺している。 10年間執権して空しく政権を明け渡した民主化運動勢力は政権再奪還のために切歯腐心しているが、過去の民主化運動勢力の力だけで政権を奪還するということは妄想に過ぎない。 岐路に立った韓国社会の方向舵は20,30代が握っている。 ところが20,30代は維新時代を経験することもなかったし、どんな時代だったのか殆ど知らない。 20代は維新時代が終わった後に生まれたし、今年40になった1973年生まれもパク・チョンヒが銃に撃たれて死んだ後に国民学校に入った。今の20,30代に維新時代とは、その時期に青年期を送った緊急措置世代にとっての‘犬に乗って馬を商ったという北満州原野の独立軍’の話ほどに遠い時期の話だ。

 しかし維新時代は現在の韓国社会の骨組みを作った時期であった。 維新体制に抵抗した民主化運動勢力さえ維新時代に作られた人々だった。 70,80年代の民主化運動勢力は一言で言って維新の肉体と光州の心を持つ世代であった。 声帯が破れろとばかりに自由と民主を叫んだが、実際には自由を享受してみたことも、民主主義が身につく機会も持ち得なかった不幸な世代であった。

 朴正熙が複製したい大統領の1位に挙げられて、彼の銅像があちこちに立てられ始め、彼の娘の朴槿惠(パク・クネ)が次期大統領選挙で保守陣営の不動の候補である今、維新時代は生きている過去だ。 早く終わってしまった維新体制、破綻してしまった朴正熙のモデルが度々よみがえるのは朴正熙の亡霊を度々呼び出す勢力がいるためで、また一方では民主化勢力が朴正熙の棺にきちんと釘打ちできなかったためだ。 李明博と朴槿惠を含む保守勢力は‘豊かに暮らしてみよう’と叫んだ朴正熙を跳び越えられないまま‘金持ちになって下さい’という甘いささやきだけを繰り返したに過ぎない。 民主化運動勢力もまた大衆が‘民主化されて暮らし向きがこんなに良くなった’と感じさせることができなかったために、朴正熙を土に埋めることに失敗した。 死んだ朴正熙時代を神話化しようとする勢力が狙うのは“過去の美化を通した現在の自分たちの地位強化”だ。 ニューライトだったが、それでも自ら合理性は守ろうと努力した故キム・イルヨン教授は朴正熙モデルは時効が満了したとし「すでに高度産業化段階に突入した現時点で再評価という名分の下に当時の亡霊を再び呼び出すことはそれこそ妄霊に過ぎない」とはるか以前に明らかにした。

 維新時代は日帝が育てた植民地青年たちが壮年になり、社会を運用していった時期であった。 この時期は親日残滓清算ができなかったということが、いや、親日残滓を清算しようとしていた勢力が逆に親日派に逆清算されたことがどんな結果を産んだかを残酷に見せた時期であった。 今後、詳しく調べるだろうが朴正熙を司令官とする兵営国家は彼が青年期を過ごした時期の満州国の国防体制や日本の総動員体制と驚くほど似ていた。 皇国臣民として生まれ、皇国臣民として錬成された‘親日派’朴正熙の真の姿は青年将校時期よりも満州国や昭和維新の失敗したモデルを再び生かしたところから探さなければならないだろう。 維新体制の暴圧性は朴正熙の指導力不足に対する明確な証拠となる。 朴正熙は‘近代化’と経済発展により複雑化した社会構成をもはや最小限の形式民主主義を維持する方式には引っ張って行けなかった。 60年代から70年代への‘退行’は、朴正熙が体質に合わない米国式民主主義の枠組みを脱ぎ捨て若かりし頃から慣れ親しんだ日本式モデルを‘韓国的民主主義’として包装し持ち出したことを意味した。 維新時代はキム・グンテとその友人たちに内乱陰謀というすさまじい罪目をおっかぶせた者が起こした本物の内乱の時代であった。

 1970年代は躍動的という言葉では語り尽くせない程に本当に多くのことが爆発的に起きた時期であった。 映画や演劇より現実はさらに劇的だった。 70年代は‘ガーンと太陽が昇る日’を夢見て、数多くの若者たちがソウルに集まった時期だ。“10月維新、100億$ 輸出、1000$ 所得”このようなスローガンで維新が始まり、40年が過ぎて韓国の貿易規模は1兆ドルを突破した。 その時に夢のように聞こえた1000ドル所得は現在、脱北者が続出する北韓の国民所得規模だ。 新堂洞(シンダンドン)に古い瓦の家一軒しか持てるものがなかった清廉な陸軍小将が子供に10兆ウォンを軽く超える資産(正修奨学会、育英財団、嶺南(ヨンナム)大学校)を譲った奇跡ほどではないにしても、韓国が民主化と経済発展を同時に達成したことは真に驚くべきことだった。

‘ア、朴正熙!’と‘悪、朴正熙!’

 どの時代でも同じだが維新時代も一つの維新時代だけがあったわけではない。 ‘総和団結’を叫んだ維新時代は万人に対する万人の闘争とは言えないにしても多様な勢力間の争闘が広がっていた。誰の観点で見るかによって維新時代の姿は互いに競合するいくつかの歴史像として現れるはずだ。 誰かが自身の現在の立場を正当化させるために浮き彫りにしようとする場面や流れは、また別の人にとっては隠したく恥ずかしいことでもありうる。誰かにとって朴正熙は‘ア、朴正熙!’だが、また別の人々には‘悪、朴正熙!’だ。 ある人々にとって70年代は京釜(キョンブ)高速道路の開通で始まったが、またある人にとって70年代は平和市場で燃え上がったチョン・テイルの炎から始まった。平和市場という同じ場所で同じ歳月を送っても、社長の歴史とシタ(下働き)の歴史が簡単に一つになることはできないだろう。

 同じ70年代を送っても江南(カンナム)の地価が10~20ウォンだった時期に1万坪、10万坪の土地を買っておいた人と、住宅保証金もなくて途方に暮れる人の韓国現代史はマルジュク通り(馬に粥を食べさせたという現在のソウル市瑞草区、良才洞の良才駅交差点一帯を言う)神話とマルジュク通り残酷史ほどに距離が遠い。 朴正熙を崇拝する者は元々朴正熙が実施した平準化やグリーンベルトや医療保険を叩き壊そうとし、朴正熙を批判した民主勢力はこれを守ろうとするのを見れば、40年という歳月は決して短い期間ではなかった。‘維新と今日’は互いに競合する維新時代の歴史像の間で安易なバランスを取る方式の態度は取らない。 ‘維新と今日’は韓国社会が新しい未来に進むか、朴正熙の亡霊が引き渡す過去へ戻るかの岐路に立っている2012年の今日、現在私たちが当面の問題の根元や根幹になる時代を見て回る。 ただの一日として安らかな日がなかった維新時代を…。名称からして100年前の日本の明治維新を書き写してきた復古的で時代錯誤的にならざるをえなかったその時期を…。

←ハン・ホング

ハン・ホング(韓洪九)は

 おもしろい現代史コラムの世界を開いてくれたヒゲオヤジ歴史学者。聖公会大教養学部教授、平和博物館常任理事として仕事をする。 2004年から3年間、国家情報院過去史委員会で活動し、<ハンギョレ> <ハンギョレ21>に‘歴史の話’と‘司法府-悔恨と汚辱の歴史’を連載した。著書に<大韓民国史> 1~4巻と<特講>、<今この瞬間の歴史>がある。

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/516413.html 訳J.S