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原子力発電所から30km圏外側の桜並木‘放射能 40倍’…花見に出てきた市民たちを襲う

原文入力:2011-04-19午後10:09:14(3495字)
60km圏外の学校も被爆の危険…福島 安全地帯なし
避難所の避難民たちに無気力症
"日本政府 30km圏外 汚染放置…被爆限度 20倍に高めるだけ"

←日本、福島原子力発電所から20kmほど離れた地点にある畑付近で韓日市民調査団が放射能濃度を測定してみると20.96マイクロシーベルト(μSv)を示した。年間被爆線量の200倍に該当する値で、こちらでは今後 長期にわたり耕作不可能な状態だ。路傍には原子力発電所事業を支持してきた自民党所属国会議員の選挙ポスターが立てられていた。

韓-日市民調査団、福島原子力発電所現場を行く
チェ・イェヨン環境運動連合環境保健市民センター所長など(韓国)国内の市民団体活動家3人と村山武彦 早稲田大教授(社会工学)等、日本の専門家3人で構成された韓国・日本市民調査団は去る13~18日、地震で放射能流出事故が起きた日本、福島原子力発電所近隣地域を訪問し共同調査を行った。

調査団は日本政府が避難地域に設定した福島原子力発電所半径30kmの内と外で放射能を測定し、避難所を訪問し市民たちに面談した。調査団が訪ねた福島原子力発電所事故地域では地震と津波の傷痕は少しずつ消されていたが、放射能への被爆危険は依然として市民の近くに潜んでいた。今回の調査団を率いたチェ所長が現場調査を終え<ハンギョレ>に送ってきた文を載せる。

"ガクッ!"

日本、東京の空港から福島に向かう高速道路を走っていた車両に大きな衝撃が伝えられた。一ヶ月前の地震で高速道路に亀裂が入っていたのだ。大地震の爪跡は200~300mごとに大小の衝撃を伝えた。

韓・日市民調査団が初めて訪問した先はいわき市だった。事故が起きた福島原子力発電所から20~50km間に位置したところで、地震と津波被害に加え原子力発電所の爆発による放射能被害まで三重苦を被っている基礎自治団体の一つだ。事故直後の先月15~16日に住民34万人の大部分が非難し‘幽霊都市’になった。4週目を迎え避難民が少しずつ復帰したが、まだ3分の1は帰って来ていない。

いわき市議会で20年以上‘脱原子力発電所’を強調してきた佐藤かずよし議員は「政府が一般市民の被爆限度を20倍も高めようとしている」と話した。原子力発電所事故が解決される兆しを見せずにいる中で、市民の放射能被爆累積量が高まるや日本政府が放射能被爆許容限度を年間1ミリシーベルト(mSv)から20ミリシーベルトに大幅に引き上げようとしているということだ。原子力専門家たちが被爆許容量を高めても問題がないという話をおおっぴらにしているのだ。すでに日本政府は事故直後に投入された原子力発電所労働者の被爆限度を100ミリシーベルトから250ミリシーベルトに2.5倍高めた経緯がある。政治的判断によりゴムひものように増えたりするものが放射能露出基準である。安全だとばかり言ってきた政府を信じ難く、東京で医学専門家を招請し講演会を催したが、400人を越える市民が集まったと言う。彼が話を繋いだ。「福島は非常に保守的な地域です。放射能恐怖が続いて市民の考えも少しずつ変わってきています。」

市民調査団は4月13日から5日間、原子力発電所事故地域一帯を通り放射能を測定した。事故を起こした原子力発電所から30km圏外なのに土壌付近の大気中放射能濃度が時間当り99マイクロシーベルト(μSv)を越える場所があった。年間被爆限界値1ミリシーベルトを時間当りに換算した0.11マイクロシーベルトの1000倍近い高濃度だ。人の背程度の位置で測定した大気中放射能濃度も54マイクロシーベルトだった。また、60km以上離れた福島市内のある小学校の運動場での大気測定でも3.65マイクロシーベルトの濃度を示した。
福島市内が見下ろせる小さな山である花見山は桜など春の花が満開だった。週末の14日午前、多くの市民が道を埋めていた。ところがそちらの大気中濃度は4.13マイクロシーベルトで年間許容値の40倍程度を示していた。

こういう調査内容は事故が起きた原子力発電所から30km以内だけでなく、福島県全域が高い濃度の放射能に汚染されたということを示している。事故が起きた原子力発電所から放射能が継続的に漏れ出ていて、原子力発電所爆発初期の高濃度放射能落塵が土壌を汚染させ土地からも放射線が吹き出ている状況だ。

←チェ・イェヨン環境運動連合環境保健市民センター所長

16日午後、福島市内のある市民団体会議室に20人余りの社会団体代表が集まった。彼らは政府が市民の累積放射線量を調査せずに半径30km圏外の汚染状況を放置していると口をそろえた。

市民調査団は福島市と郡山市の避難所2ヶ所を見て回った。原子力発電所避難民は異口同音に「地震と津波被害は頑張れば勝てるが、原子力発電所被害はどうするべきかまったく力が出ない」と話した。

福島はもちろん、東京など日本全域で地震と津波被害を支援するための‘ガンバレ ニッポン’(頑張れ 日本)キャンペーンが広がっている。ところが実際の放射能避難民は無気力な状況から抜け出せずにいた。地震津波の被害現場は少しずつ片づけられ政府の復旧対策が提示されているが、原子力発電所被害地域は出入り規制が強化されるなど状況が悪化しているためだ。

5日間の福島県現地調査を終えた調査団は6日目の18日午後、東京都内にある東京電力本社を訪問し要求書を手渡した。調査団が現地で把握した問題点と避難民の声を直接伝達するためだ。公害病の代名詞である水俣病と‘第2のチェルノブイリ’福島。最も成功的に産業化を成し遂げた地球村経済大国日本に付けられた暗い名前だ。

福島県/文・写真 チェ・イェヨン環境運動連合環境保健市民センター所長

原子力発電所避難民 石丸小四郎

“東京電力の責任を最後まで問わなければ”

病院の放射能区域のようなところで生活
40年も‘脱原子力発電所’を運動してきたけれど…
今は故郷を再び見る希望も消えて

←石丸小四郎氏

“東京電力の責任を最後まで問わなければなりません。”

前職郵便局職員だった石丸小四郎(68・写真)氏は福島原子力発電所から80km離れた秋田県の姉の家に孫二人と避難中だ。彼の家は福島原子力発電所から4km離れた富岡町にある。幸い彼の家は標高が高く地震津波を避けられたが、放射能汚染は避けられなかった。

事故当日夜9時頃、原子力発電所半径5km以内の住民たちに避難指示が下され、10km以内は家の中で待機せよとの指示が下された。だが、翌日午前10時には半径20kmまで待避範囲が拡大していた。原子力発電所事故に備えた避難訓練があったが、まともに訓練を受けた人々は誰もいなかった。

石丸氏は原子力発電所建設が始まる前の1964年に同じ職場に通っていた夫人と共に富岡町に生活の基盤を構えた。彼は高濃度放射能に汚染された遺体は収拾もできないという話を聞いた後、もう生きて故郷に帰ることはできないと覚悟した。昨年 死別した妻が好んだ木造住宅、故郷の森をもう一度見たいという希望は消えた。

彼は原子力発電所のある双葉地方の市民団体である‘原発反対同盟’代表だ。彼は原子力が原子爆弾技術から出たものなので根本的に平和的でなく安全ではないと考えた。

彼は普段から人々に私たちが暮らしている原子力発電所地域は病院内にある放射能区域と同じだと話してきた。放射能は痛くもなく臭いもないが、誰が放射能区域でご飯を食べて寝て暮らそうと思うかということだ。事故発生後、知人が「あなたが警告していた通りに事故が起きた」と話した。彼はこう答えた。「それに何の意味がありますか? 40年も原発反対運動をしてきたが止められなかったし、結局こうしたことが起きてしまったのに…。」

韓日市民調査団を案内した彼はついに家には入れなかった。出入りが統制された20km地点で車両が制止され、ハンドルを握った彼の顔に涙が流れた。「東京の人々が使う電気を生産するために、なぜ私たちがこのように犠牲にならなければならないのですか? とてもくやしいです。」 チェ・イェヨン

原文: https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/473787.html 訳J.S