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‘時代の良心’ 象徴…“最も愛された牧者”

原文入力:2009-02-16午後09:55:22
キム・スファン枢機卿の足跡
11才から司祭の道 選択…1969年世界最年少 枢機卿
独裁政権下で常に弱者側に…民主化運動 求心点
他宗教と自由奔放交際…天主教 保守的 認識崩して

チョ・ヒョン記者

キム・スファン枢機卿は各種世論調査で数多くの韓国宗教家の中でいつも影響力1位を占めた人物だった。中央集権的な天主教の特性上、彼が唯一無二なカトリックの代表者だったことは間違いない。また天主教よりさらに多い信者をもつ仏教と新教宗教家たちを抜いて彼がいつも影響力だけでなく尊敬の対象として一番の上席にいた。彼が日本の上智大に進学した時、初めて見た恩師が彼を‘麒麟児’といったというが、彼は「その言葉通り幸運児であった」と告白した通り、この時代に最も愛された牧者であった。
陶器商人だった父親と行商をした母親との間に5男3女の末っ子として生まれ学生時代にも大きく頭角を現わしたことがなかった彼が、この時代に最も愛されて尊敬を受ける宗教家になった。

彼は父親が小学校1学年の時に咳嗽病で亡くなり日々の食事にも事欠きながら育ったが、そのような環境にもかかわらず信心深く豪胆な母親の愛をたっぷり受けて育った。しかも司祭になった3才離れたすぐ上の兄キム・ドンハン神父は幼い時期から彼を申し分なく大切に見てくれたという。

息子たちを神様に捧げようとする母親に背中を押されるようにして11才で大邱にある聖ユスティノ神学校予備科に入学し司祭の道を準備しなければならなかった彼はドンソン商業学校在学時期までもどうすれば司祭をしないで済むかを深く考えた若者だった。

日本の上智大留学時期には国を失い日帝の圧制に苦しむ民族のために何をすべきか苦悩したりもし、日帝の学徒兵として南太平洋の島に引きずられて行き大変な苦労をし解放と共に解かれて故国に戻った。

←キム・スファン枢機卿年譜

彼は1947年ソウル,恵化洞のソンシン大学校に戻り神学の勉強を終え51年9月司祭叙品を受けた。当時は司祭数が少なくて叙品後、直ちに慶北,安東本堂主任神父として発令を受けたが、彼が一線聖堂で勤めたのは安東と金泉聖堂を合わせてせいぜい2年半に過ぎなかった。キム枢機卿は当時、食事もまともに間に合わせることができなかったが情の厚い貧しい信者たちと共にしたその時期が一番幸せだったと回顧したりした。

彼は司祭になって2年にもならない53年に大邱大教区長秘書になったのを始め、一線聖堂ではない教区の要職を引き受け始めた。それだけ早くから上の人の眼に触れた司祭であったわけだ。

7年間のドイツ留学を終えた彼は64年カトリック新聞社の前身である週刊<カトリック時報>の社長を経て66年主教よなり新しく教区庁となった馬山教区庁の初代教区長になった。彼がわずか42才で主教になるやカトリック内でも“キム・スファンとは誰か?”という話が出るほど破格的だったが、これは麒麟児キム・スファンの人生の序幕に過ぎなかった。

彼は2年後、韓国天主教主教の中で最下位序列だったが大主教に昇品してソウル大教区長に上がっり、1年後には韓国天主教史上初めての枢機卿になった。当時彼の年齢は47才で、全世界136人の枢機卿の中で最年少者であった。

彼が枢機卿になった1969年は全国がパク・チョンヒ大統領の終身執権のための独裁の刃の下にすべてが静まった時であった。人権と民主化のための叫びは監獄行と拷問、はなはだしきは死をも覚悟しなくてはならなかったので西側ネットワークの支援を受けた新教と天主教宗教家たちいの声が切実な時点だった。

この闇の時期に彼の存在が光を放った。保守的なカトリック宗教界の風土の中でもキム枢機卿は決定的な瞬間に信仰人として弱者の声を代弁しそれが民主化勢力にとって大きな力になった。

それ以前までの韓国近現代史で天主教の社会的声は微小だった。布教初期に布教のために帝国艦船の派遣を要請した‘黃嗣永帛書’騒動に始まり、伊藤博文を狙撃した安重根義士を破門し、主要宗教勢力の中で唯一3・1万歳運動民族代表に参加しなかった。しかしパク・チョンヒ政権当時、キム枢機卿と正義具現全国司祭団の民主化の声は一気に彼と天主教を‘正義の使徒’ないしは‘正義の宗教’に浮上させた。

彼はもまた‘私のせいです’運動を導く程に宗教的に自身を省察した宗教的性格とユーモアと才覚とがあふれる人間味に他宗教家らとの自由な交際などで天主教を寛容の宗教と認識されるようにした。

そのおかげで彼がソウル大教区長に着座した68年には聖堂48ヶ所14万人余りだったソウル大教区傘下の信者数は、彼が引退する直前の97年には聖堂197ヶ所に信者121万人余りと十倍近く増える程飛躍的に成長した。

彼は何よりも韓国天主教を導き磐石に仕上げようとまい進した人物だった。他の見方をすれば祖国も国民も彼には付随的だった。彼は普段から世の中に生まれ最もよくやったと思うこととして“神父になったこと”を挙げ、墓碑に“主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない”(詩編23章1節)という言葉が彫られるように願った。

チョ・ヒョン宗教専門記者cho@hani.co.kr

https://www.hani.co.kr/arti/society/religious/339218.html

原文: 訳J.S