原文入力:2010-11-01午前11:35:21(3562字)
‘サムドン会’友人ら 記憶 次々と
"休日には休まなければならないことを
テイルが言ってくれて分かった"
キム・ミンギョン記者
←勤労基準法遵守などを要求して1970年11月13日に焼身したチョン・テイルが平和市場で仕事をしていた時から友人だった‘サムドン親睦会’会員 イム・ヒョンジェ(左側)氏とキム・ヨンムン氏が去る29日昼、ソウル、鍾路5街のチョン・テイル銅像前で当時を思い出しながら話している。キム・ミョンジン記者 littleprince@hani.co.kr
焼身40周忌…再びチョン・テイルを語る
ちょうど40年前の1970年11月13日、ソウル平和市場で一筋の火花が燃え上がった。労働青年チョン・テイルは22才の短い人生を燃やして去ったが、彼が残した跡は広くて深い。‘私の死を無駄にするな’という遺言は労働運動の種になり、韓国社会全体に大きな響きを与えた。3度にわたり1970年のチョン・テイルと依然として疲れてだるい2010年の数多くのチョン・テイルたち、そして彼の精神を実践しようとする未来のチョン・テイルたちの話を載せる。
その日の記憶は鮮やかだ。あたかも数日前のような驚きと怒り、遺憾が手でつかめそうだ。
1970年11月13日午後2時頃、小規模縫製工場が密集したソウル平和市場には緊張感が漲った。チョン・テイルと彼の友人たちが準備したデモが警察と警備員らの妨害で失敗に終わり、若い労働者たちはどうしていいか分からず、騒然としていた。その時、チョン・テイルがある友人を呼んだ。"ヨンムン! こっちにきて。" 自身を呼ぶ声にキム・ヨンムン氏が近付く間にチョン・テイルのからだに火がついた。
"勤労基準法を遵守せよ!"
そばにいた友人チェ・ジョンイン氏が急いでジャンパーを脱ぎ、火を消し始め、イ・スンチョル氏も駆け寄ったが及ばなかった。
チョン・テイルはそのようにして亡くなり、その日その場を共にした友人たちは白髪にシワが増える老年に入り込んだ。だが、キム・ヨンムン(60),イ・スンチョル(61),イム・ヒョンジェ(62),チェ・ジョンイン(61)氏はまだ40余年前にチョン・テイルと作った‘サムドン親睦会’を守っている。友人の死を目で見て手で感じた友人たちは、一生チョン・テイルを忘れなかった。彼が火に焼ける姿と共に勤労基準法という単語は胸に烙印のように残った。
"私たちは労働組合と労働庁も区別できなかったが、‘私たちがテイルを殺した’という責任感と義理のために、その後 狂ったように戦った。" (イ・スンチョル) "テイルが死をもって守ろうとしていた所なのに、どうして簡単に離れ。平和市場を、労働組合を命のように感じた。" (チェ・ジョンイン)
1967年に裁断補助の仕事を始めたキム・ヨンムン氏の目標はただ一つ、はやく技術を習い金を稼ぐということだった。朝8時、平和市場工場で始まった仕事が家へ行く終車が切れる時まで続いても踏ん張った。夜12時を過ぎてようやく夕食を食べる生活も我慢した。当然と思ったこういう日常が変わったのは全てチョン・テイルのおかげだった。
"テイルが勤労基準法を見せ、一日8時間だけ仕事をし、休日には休まなければならないと言った。‘こういうものがあったのか?’といいながら、目がパッと開いた。"
勤労基準法は1953年に制定されたが、死文化されたまま放置されていた。だが、1ヶ月平均336時間働き2日休む平和市場の裁断士、ミシン士、シタ(訳注:下働き)、裁断補助たちに勤労基準法は新‘発見’だった。頭より体が、知識より経験が先に反応した。清渓川でデモで捕えられていく大学生を見て恐れを感じたキム・ヨンムン氏が、見たことも聞いたこともない労働運動に突然飛び込んだのも体が先に反応したためだ。
‘労働運動はアホのすること’という話を聞いたチョン・テイルが、69年6月に集いを作り“俺たちはアホだからアホ会と呼ぼう”と言ったのも、こういう純粋で原初的な理由からだった。今までは知らなくてやられっぱなしだったが、法に規定があるなら、きちんと守られれば良いと考えた。チョン・テイルと友人たちはそこで、法とは異なる現実を知らせようとアンケート調査を行い、労働庁長に陳情書を出し、報道機関を訪ね歩いた。70年9月、新聞に平和市場の労働環境に関する記事が載った時でも世の中が変わったと思った。しかし変わりはしなかった。
キム・ヨンムン氏は“振り返ってみれば、その頃 テイルの頭の中には‘死’という言葉がぐるぐる回っていたようだ”と回想した。主人公が悲劇的に死ぬ映画<スザンナ>を見た後、チョン・テイルはキム氏に“虎は死んで皮を残すが人は死んで名前を残すと言うが、正しい名前を残すなら死ぬのは恐ろしくない”と話したという。
性格が良く、よく遊んだテイル…死を恐れなかった
‘焼身事件’後に作った労組
81年 軍部の時、強制解散
"労働運動 止まってはいけない”
勤労基準法がチョン・テイルと友人らの目を開かせたとすれば、チョン・テイルの死は残った人々にとって闘争の動力であり、人生の転換点となった。友人たちは1970年11月に止まってしまったチョン・テイルの残った人生を継続した。
チョン・テイルの焼身の半月後、全国連合労働組合清渓被服支部(清渓被服労組)が作られた。パク・チョンヒ政権の冷酷な恐怖政治に知識人らはペンを折り、野党政治家たちは低姿勢になったが、チョン・テイルの友人たちは恐れを忘れデモ、座り込みを継続した。残ったあなたの友人は皆一回ずつ清渓被服労組の支部長を引き受けた。労働時間短縮、賃金引き上げ、休日遵守などチョン・テイルの夢をかなえ、労働者の暮らしを変えるために足がすりへらすように平和市場を縫って歩き、雇い主らと戦った。労働教室にはパク前大統領夫人ユク・ヨンス氏の写真の代わりにチョン・テイルの写真が懸けられた。
しかし清渓被服労組は1981年1月、‘浄化’を掲げたチョン・ドゥファン新軍部政権により、ついに強制解散させられた。友人たちも各自生計を探し散った。84年、後輩たちが清渓被服労組再建運動を行ったが、20代を労組に注ぎ込んだ人々は生業を選ばなければならなかった。見て習った技術を生かし各自、工場を運営したり店を出した。それでも友人たちは87年6月抗争の時、街頭に出たし、95年に全国民主労働組合総連盟が創立される時には25年前に亡くなったチョン・テイルを思い出した。
2010年現在、キム・ヨンムン氏はMKファッション産業発展協会首席理事を受け持っており、イ・スンチョル氏はジッパー代理店を運営している。イム・ヒョンジェ氏は保険代理店をしていて、具合の良くないチェ・ジョンイン氏は休んでいる。
これらの人々にとってチョン・テイルの焼身は今も涙の出る程に胸の痛む過去だが、‘友人テイル’を思い出せば微笑む記憶も数多い。"ビリヤード、卓球がどれほどうまかったか、テイルが博打にたけていたな。また、しゃれっ気がどれほどあったか、バーバリーコートの襟をまっすぐ立てて歩いていたな。”(チェ・ジョンイン) “工場の友人らと金谷陵へ遊びに行ってテイルに会って踊ったり流行歌を歌って楽しく遊んだ。”(キム・ヨンムン)
焼身しなかったとすれば、チョン・テイルは‘闘士’ではなく‘性格が良くよく遊ぶ好人’としてさらに記憶されたかも分らないと友人らは口をそろえた。今は‘現場’からはるかに遠ざかったが、未だに劣悪な労働者の暮らしを考えれば心が痛む。イ・スンチョル氏は“労働者の生活の質が以前より良くなったとしても、非正規職のように疎外される人々が残っていて残念だ。もしかしたらテイルが見た夢は、永遠に止まってはいけない労働運動の宿命のようなものなのかも分からない”と話した。
チョン・テイルが叫んだ‘8時間労働’と‘休日保障’は、働いて また働かなければならなかった当時の労働者の最小限の要求だった。労働運動家である前に人間らしくなろうとした一人の人間の‘人間宣言’だった。それでチェ・ジョンイン氏はチョン・テイルを‘純粋な心と精神’といて記憶し、イム・ヒョンジェ氏は‘他人を愛し配慮する姿’として胸にしまっている。
キム・ミンギョン記者 salmat@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/446401.html 訳J.S