永久未解決に終わるところだった「華城(ファソン)連続殺人事件」の有力な容疑者を特定し、30年あまりの時を経て事実上犯人を検挙したと発表した警察だが、笑うことも泣くこともできずにいる。飛躍的に発達した遺伝子分析技術などの科学捜査を通じて事件解決の糸口を見つけたはいいが、事件発生当時の当て推量的捜査が再び注目されているためだ。
警察は、この事件の容疑者としてL容疑者(56)を特定した直後、「すでに公訴時効を迎え断罪はできないが、必ず真実を究明する」と発表した。「底引網式捜査」をあざ笑うかのように繰り広げられた連続殺人事件で失墜した警察の名誉回復はもちろん、国民の公憤と傷の癒しのためと理由を説明した。しかし、時間が経つにつれて明らかになるL容疑者の足取りと、当時の警察の初動捜査の穴をはじめとした捜査の問題点などが次々と飛び出し、真相究明に乗り出した警察をむしろ苦境に追い込んでいる格好だ。
■警察、捜査上タブーの「予断」によって見当違いの人ばかりを逮捕したのか
京畿道南部地方警察庁捜査本部は23日、「華城連続殺人事件の捜査の真っ最中だった当時、L容疑者が警察の調査を受けていた記録を確認した」と明らかにした。1963年生まれのL容疑者は最初の事件(1986年9月15日)の時から最後の10番目の事件の被害者が発見された1991年4月3日まで犯行場所から半径3キロ内に住んでいたので、当然捜査線上に上がって警察の取調べを受けただろうという推論が事実と確認されたのだ。
したがって、延べ205万人を動員して2万1280人を捜査した警察は、容疑者とされた3千人あまりを捕らえ集中的に追及したが、肝心のL容疑者に対する捜査はきちんと行われていなかったと見られる。この過程で容疑者として逮捕され、釈放後「ぬれぎぬを着せられた」として4人が自死した。この中には、L容疑者の犯行とされる第5の事件(1987年1月10日発生)と第7の事件(1988年9月7日)の犯人と烙印を押された2人も含まれている。
このため、当時の警察は一部の事件の証拠の分析などを通じて容疑者の血液型をB型と「予断」し、精密な捜査なしに「むやみやたらに」犯人逮捕に乗り出したのではないかという指摘が出ている。DNA分析によって第5、第7の他に第9の事件(1990年11月15日)を起こしたとされるL容疑者の血液型はO型だ。
当時の捜査に参加したある警察官は、「さまざまな情況から、容疑者の血液型がB型である可能性が高かったため、同じ血液型を持つ人を対象として捜査に注力してきたのは事実だ。捜査のタブーである予断が問題だったと思う」と述べた。これと関連して「(L容疑者がどのように捜査網をくぐり抜けたかについては)当時の捜査官たちとも話さねばならず、過去にあったことについては精密に確認しなければならないが、手記などとして作成された資料が15万枚に達することもあり、現在(その理由を)調べているところ」と語った。
■過去の警察、協力も捜査もなかった?
L容疑者は1993年4月に忠清北道清州(チョンジュ)に転居後、1994年1月13日に自分の家に遊びに来た妻の妹に性的暴行を行ない殺害した罪により無期懲役を言い渡され、現在、釜山(プサン)刑務所に収監されている。
当時の裁判記録によると、犠牲となった義妹は首を絞められ殺害された後、手足をストッキングで縛られた状態でL容疑者の自宅から880メートル離れたところに捨てられた。華城連続殺人事件の犯行手法と類似している。さらに、L容疑者が華城連続殺人事件の現場付近に住んでいたことから、疑わしい点を幅広く捜査すべきだったにもかかわらず、警察は捜査協力もしなかったという。
当時、清州西部警察署はL容疑者が住んでいた華城の自宅への家宅捜索も行い、華城捜査本部も「容疑者を連れてきてほしい」と捜査協力を要請したが、協力は実現せず、両警察ともこれといった捜査は行わなかったことが分かった。
L容疑者を逮捕した元警察官は、「華城事件は、だいたいが知らない女性を追いかけて犯行に及んでいるが、清州事件は自宅での義妹に対する犯行。今から見れば似ていると言うが、当時は華城事件と結びつけることは難しかった」と語った。これに対し、西原大学のキム・ヨンシク教授(警察行政学)は、「よく知る間柄の義妹に睡眠薬を飲ませ鈍器を用いるなど、犯行の手口や対象が違う。また、最後の事件から3年後、華城ではなく清州で起きた事件であり、結びつけることは容易ではなかっただろう。しかし、ストッキングを使った死体遺棄は注目すべき価値があったのに残念だ」と語った。
一方、警察は23日、L容疑者に対する対面調査を行わず、従来の事件記録の検討とこれまでに行われた対面調査でのL容疑者の供述などの分析を行っている。L容疑者は20日までに3回行われた調査で「私は華城事件とは何の関係もない」として、引き続き容疑を否認している。