「この席が不公平な韓米SOFA(在韓米軍地位協定)改正の基礎になり、堂々たる大韓民国の礎になって欲しい」
2002年、米軍の装甲車に轢かれ犠牲になった女子中学生シム・ミソン、シン・ヒョスンさんの15周忌追悼祭が、13日午前11時京畿道楊州市(ヤンジュシ)広積面(クァンジョクミョン)孝村里(ヒョチョンリ)の事故現場の道路で開かれた。この日、14年ぶりに娘の追悼行事に参加したミソンさんの父親シム・スボさん(63)は「これまで志をともにすることが出来なかった至らない私を理解して許してほしい。難しい条件の中でも15年という長い間、守ってきた市民団体の皆さんに頭を下げて心から感謝申し上げる」と話した。シムさんの友人であるヒョスンさんの父親シン・ヒョンスさん(63)もこの日の追悼祭に参加した。遺族たちは事故の直後に米軍と合意した後、これまで追悼行事に参加せずに沈黙を守ってきた。
追悼祭はミソンさん、ヒョスンさんが暮らしていた広積面孝村里の村の入り口から事故現場まで当時二人の少女が歩いた道に沿って歩くことから始まった。遺族と市民など参加者200人は「THAADは出て行け」、「SOFA全面改正」、「自主平和」、「真相究明」などと書かれた旗を掲げ、道路名住所「ファハム路74番道」を200メートルにわたり行進した。
中学2年生だったミソンさんとヒョスンさんは2002年6月13日、友達の誕生パーティーに行くために歩道のない地方道に沿って歩いていて、訓練を終えて復帰した在韓米軍のキャタピラ車輌に轢かれて亡くなった。事故の後、道路が拡張され歩道が設置されたが、依然として戦車や装甲車はもちろん、ダンプトラックがすれ違うには狭く見えた。
往復2車線のうち一車線を統制して開かれたこの日の追悼祭では、事故現場に年内に造成される予定の平和公園用地に鳥竿(ソッテ)を立てる行事を行ったのに続き、「生命がすなわち天です」というメッセージが込められた井華水(早朝一番に汲んだ井戸水)差し上げ行事が続いた。続いて夢を奪われ15歳の若さで凄惨に亡くなったミソンさん、ヒョスンさんの御霊を慰労するサルプリ(厄払い)公演が開かれた。
この日の追悼祭にも2012年にミソンさん、ヒョスンさん10周忌の時に市民600人あまりの寄付で作られた追悼碑「少女の夢」が登場した。高さ2.4メートル、幅1.8メートル大で重さ100キログラムを超える鉄製の一対の追悼碑は、追悼行事の度にトラックに載せられて登場する。だが、そのようなさすらいは今年で終わりにし、最近売買契約を終えた平和公園(366平方メートル)に設置される予定だ。事故現場に造成される平和公園は、地価1億1100万ウォン(約1080万円)を含め3億ウォン(約3000万円)の事業費が投じられる予定だ。現在までに550人が募金に参加して、5400万ウォンを集めた。募金は9月末まで続けられる。
ミソンさん、ヒョスンさんと関連した米軍裁判を参観したクォン・ジョンホ弁護士は、この日の行事の経過報告で「真相究明活動は2009年まで着実に展開されたが、人材と財政の困難のためにその後は中断された状態」として「2005年に議政府(ウィジョンブ)地検から譲り受けた捜査記録の検討を通じて、米軍の運転兵が女子中学生を見ており、運転兵と通信兵の間に通信障害がなかったという決定的な事実を確認して、米軍に対する無罪評決は誤りであることを明らかにしたが、捜査記録の核心的内容が脱落、隠蔽され、裁判記録全文も見ることはできなかった」と明らかにした。クォン弁護士はさらに「事件捜査と裁判関連国内外資料に対する情報公開を通じて、真相究明と責任者処罰など未完の課題を解決する活動に乗り出す」と話した。
「平和と統一を開く人々」の常任代表であるムン・キュヒョン神父は、追悼辞で「ヒョスンさん、ミソンさんの事故以後、互恵平等な韓米関係を望む国民のろうそくの祈りで盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権が誕生したが、真相究明やSOFA改正、平等な韓米関係樹立などの課題を解決できず、今ようやく追悼平和公園の着工を迎えることになった。文在寅(ムン・ジェイン)新政府では、盧武鉉政権で終えられなかった真相究明、SOFA改正、互恵平等な韓米関係樹立を成し遂げて、この地に平和と統一の道を開いてくれることを望む」と話した。
追悼祭を主催したミソン・ヒョスン追悼碑建設委員会など28団体が集まった「故シン・ヒョスン、シム・ミソン15周忌追悼行事共同準備委員会」は、現場追悼祭に続き午後5時からソウル光化門(クァンファムン)のKTビル前に焼香所を設置して、光化門追悼文化祭を進めた。