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警察が浮浪児を拉致した仙甘島で40年間なにがあったのか

登録:2015-10-04 23:32 修正:2015-10-05 06:42
生存者の証言から見た「仙甘学院」の悪夢
京畿道の高位公務員視察団が仙甘学院を訪問した様子。撮影時期は1960年代と推定される。仙甘学院の子供やと青少年が丸刈りの頭で制服を着て両側に整列し、視察団を迎えている=京畿創作センター提供//ハンギョレ新聞社

 島に監禁された10代のうち、或る人は生き残って既に初老の60代になり、また或る人は死んで墓碑もなく横たわっている。

 秋夕(<チュソク>中秋節)を控えた9月20日、京畿道安山(アンサン)市の仙甘(ソンカム)島にある京畿創作センター(旧仙甘学院)前の野山を訪ねた60代の老人たちが、小さな墓を覆っていた雑草を刈っていた。木を切り出した跡に盛り上がっている墓がざっと50基以上、雑木の間にも小さな墓が目につく。今年で3年目、リュ・キュソク「仙甘学院出身生存者の会」(生存者会)会長など仁川に居住する仙甘学院生存者がマッコリを置いて祭祀(チェサ)を行った。

 「自分たちがこの墓に埋まっていたと思うとぞっとする」 「訪ねてくれる人もいないだろう。 名前も分からず家族も知らない。こんなふうに(幼い子供を)見送ることは許されない」 「家庭では(子供たちが)出て行った後、死んだのか、生きているかも分からない…」。深いため息の中に嘆きの声があふれた。

 仙甘学院は京畿道が1946年2月1日に仙甘島に建てて運営した浮浪者保護施設だった。1942年、日帝が「朝鮮少年令」を発令して仙甘島に作った仙甘学院を、日帝の崩壊と共に引き継いだ。 日帝は浮浪者教化を前面に掲げたが、実際は「大東亜戦争の戦士として一死殉国する人的資源を増やそうとするもの」だった。 全国で捕まった数百人の子供たちが、重労働と人権蹂躪を避けて島を脱出して死ぬなど、「仙甘島の悲劇」が起きた。ところが日帝強制占領期間が終わっても、その悲劇が程度の差こそあれ1982年に京畿道が仙甘学院を完全閉鎖するまで続いた。

日帝時に浮浪者教化の仮面をかぶった仙甘学院
解放後には京畿道が管理したが
閉鎖される1982年まで人権蹂躪続く
10歳で…12歳で…監禁された子供数百人
「『お父さんを待っている所』と言ったのに
警察が無理やり連行していった」
殴られて…飢えて…強制労働させられて…
島から脱出して死ぬ者が続出
「逃亡を防ぐため裸にして眠らせた」
記録なく、被害程度把握も困難

 仙甘学院が閉鎖された後、10歳前後でここに連れて来られたキム・チュングン氏(67)は、島を脱出しようとして亡くなった子供たちのことをここで訊いたりしたという。

 「私が埋めた子供だけで15人いる。 皆、15歳前後の子供たちでした。 逃げて干潟に嵌まって死んだ4人の子供は、ひどく腐敗していて連れて来れず、ゴザでぐるぐる巻いて干潟近くに埋めた」

 島に連れて来られた人々の事情もそれぞれだ。 13歳の時にソウル南大門(ナムデムン)で警察に捕まったチョン・ビョンフン氏(59)は「『お父さんを待っている所』と説明したが警察は「何を盗みに来たのか」と言って無理やり連行した。市立児童保護所を経て島に来た」と言った。 キム・チュングン氏は下仁川で故郷の甕津郡(オンジングン)へ行く船便を待っている間、父親がちょっと席を外した間に警察に捕らえられ島に来た。

 リュ会長は「学院生が少ない時で100人余り、多い時には200人余がいたが、3分の2には縁故者がいた。 それでも全国体育祭典などが開かれる時、警察は通りを浄化するとして路上の少年たちを捕まえてて送った。割当てられた件数を上げるためだった」と説明した。

 京畿道は1954年に仙甘島に駐留していた米軍の支援を受けて建物を新築し、学校と職業訓練施設も作ったが、院生たちの生活は劣悪だった。 抑圧的規律と飢え、暴力と強制労働が彼らの日常だった。 運の良い一部の子供たちは学校にも行ったが、大部分は塩田や農地を開墾し、牛を育てる使役に動員された。 体罰に耐えられなかった子供たちの脱出が相次いだ。

 チョン・ビョンフン氏は「一部屋で20人余りが寝たが、服を脱がせて眠らせた。逃げるかと思って。 夜に小便しに行けば寝場所を奪われもした。 だから小便を我慢して眠り、漏らそうものなら全員が殴られたりした」と当時を回顧した。 仙甘学院側は院生のなかから力の強い院生を選んで“舎長”と“部屋長”として院生を管理させ、彼らの殴打を黙認したりもしたという。

先月初め、仙甘学院生存者の会の会員たちが、京畿道安山市仙甘島の京畿創作センター(旧仙甘学院)の向い側の山に埋められた仙甘学院生の墓を探し、墓の草刈りをしている =ホン・ヨンドク記者//ハンギョレ新聞社

 12歳の時に仁川市昌栄(チャンヨン)洞で捕まったペ・ヨンギ氏(67)は、14歳の時に島からの脱出を試みて捕まった。 「本当に恐ろしいほど殴られた。 軍隊で殴られるのなどは殴られるうちに入らない。なぜ殴るかって? 理由なんかない。 言うことを聞かないと言って殴り、誰が一人がヘマをすればまた殴る…」。 彼は1960年代に仙甘島問題を扱った新聞記事にも縁故者のいる子供として紹介された。 ある新聞の1964年10月26日付「自由への脱出」という記事は、当時の惨状をこのように伝えている。「功名心にかられた取り締まりの結果、(ペ・ミョンギ君のように)故郷の慶尚北道奉化(ホンファ)に縁故者がいるにもかかわらず捕まって(島に)送られ、自由のない生活から抜け出そうとする脱出を試み続けた」。 仙甘島の船着場で手打ち麺店を営むペ氏(55)は「時々60代前後の人たちが来ては、部屋を予約しておき海や船着き場、京畿創作センターをじっと見つめて泣いて行ったりする。『幼い時に捕まり苦労をたくさんした。 たくさん殴られて死んでいった人々も多かった』と話すのを聞いた」と言った。

 空腹と殴打を避けて家族と自由を求めて島を脱出しようとしたが亡くなった子供たちは、むしろで巻かれて山に埋められた。だが、誰が死んだのか、どのくらいの数が死んだのかは分からない。 記録がないためだ。 その上、生き残って島を抜け出た人々は、社会の底辺を転々として60代前後になったが、生き別れた家族を見つけられず、あるいは生きていくだけで精一杯で疲れてだるい日々を続けている。

 チョン・ジンカク安山市歴史研究所所長(63)は「解放以後、京畿道が仙甘学院の管理主体だった。 実際、一部に不良がかった青少年もいたが、客観的には大部分が両親など縁故者がいる子供たちだった。 そのような子供たちを捕まえて収容したことは、人権蹂躪どころではなく強制拉致と言わなければならない」と話した。 彼は遅きに失したとはいえ、京畿道は責任ある調査を実施し、死亡または生き残った被害者の実態を把握し、相応しい対策を取らなければならないと話した。

安山/ホン・ヨンドク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/area/711281.html 韓国語原文入力:2015-10-04 15:28数丁:2015-10-04 16:36
訳J.S(3000字)