原文入力:2011/07/28 18:57(1725字)
企業と社会が片づけてしまった人々、
いくら目をとじ耳をふさいでみても
彼らはどこへも行きはしない
←キム・ヨジン俳優
この頃、私は二つの窓を通じて世の中を見ている。マスメディアの窓とソーシャルネットワークの窓。この二つの窓が見せる世の中の姿は少しずつその差を広げている。
ソーシャルネットワークの窓には日々を悔しくかろうじて生きる人々、戦っている人々の姿が見える。生活の基盤を失い追い出されるソウル、明洞(ミョンドン)のカフェ‘マリ’の人々、それでなくとも日々を生きて行くことがガサガサしている浦二洞(ポイドン)貧民村の人々が自身の家まで火事で失い泣いている事情、そして絶対にマスメディアには登場しないがツイッター上には毎日上がってくる‘用役’という名の請負暴力団体。本当にソーシャルネットワークサービス(SNS)さえ見なければ、マスメディアだけの世の中で何の問題もなく平和に暮らせる日もある。
ある家族が子供を産んで育てて、住居を用意して、子供を大学にやって、結婚させて、その時まで会社から首を切られずに生きていくことに別に問題がないならば、あえて他人の痛みまで見て回らずに暮らせるかも知れない。ところがそれができない。マスメディアにはなくてソーシャルネットワークにはあること、整理解雇や再開発で追い出される人々がどこかに整理されて片づけられないまま その場で声を出して泣いて話している。彼らの痛みに共感する人々がいて、何かやってみようと努める人々がいる。 そして‘キム・ジンスク’がいた。
彼女が85号クレーンの35m上空で靴下を洗って干せばかちかちに凍りついて頭を殴る凶器になってしまう冬と、クレーンの鉄板の上でサンチュとミニトマトが熟していく春を過ごし、故キム・ジュイク烈士が過ごされた142日を遥かに越えるまで大部分のマスメディアは彼女を照らさなかった。 彼女の言葉と笑みと涙がソーシャルネットワークに乗って人々の胸を揺さぶった時、彼女を全く知らない多くの人々の目に‘希望のバス’は明らかにとんでもない騒乱として映ったかも分らない。 200日が過ぎて、フランス・英国・米国の新聞がみな驚いて扱う彼女の話をもしかしたら私たちが一番知らないのかも知れない。彼女がなぜ、そこでそうしているのか、‘整理解雇撤回’になぜそのように命をかけているのか。
よく知らない人々は、だから自分たちが自ら理解するために名前を付ける。‘外部勢力’だと、‘偽り扇動’だと。しかし、いくらその人々をそのように片付けたくても、その人々の実体は変わりはしない。‘解雇しやすく企業のやりやすい国’を拒否するこの地の両親たち、出口の見えない真っ暗な未来が自身の過ちによるものではないことを知ってしまった青春が、彼女が尊敬に値し懐かしくて立ち上がったのだ。世界で最も急速に経済人口が減少し企業が抜け出ている釜山を今まで放置したホ・ナムシク釜山市長は、労使間でうまく対話できるよう外部勢力は外れてくれと繰り返し話している。 労使間の対話だって?。 それこそキム・ジンスク氏も、希望バスに乗ろうとする人々も望むところだ。人がこんなにしがみついているのに、国民が叫んだ聴聞会にも鼻も見せずにいる会長、彼らにどう言えば良いのだろう。対話を少しはしろと。 すでにあなた方の会社で3人の命が失われたではないか、国民皆が彼女の呼吸の音まで聞いているこの時代に、そのように避けてばかりで暴力で阻もうとしてもこの問題が解決されないということをだ。
今のマスメディアが照らしてくれない世の中、苦しんでいる人々、企業と社会が片づけてしまった人々、彼らと彼らの問題はなくならない。いくら目をとじ耳をふさいでみても彼らはどこにも行きはしない。 その場でずっと苦しい息をしながら生きている。彼らは私自身であり、私達の子供たちの未来でもある。だからどうか、‘対話’することを切実に望む。
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/489467.html 訳J.S