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[朴露子ハンギョレブログより] 法の上に餅代がある?

http://news.naver.com/main/read.nhn

原文入力:2011/05/19午後07:42(3129字)
朴露子(バク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

先日、餅代検事を「餅代検事」と言い切ったという、その凄まじい罪名で魯会燦(ノ・フェチャン、1956年生まれ)進歩新党元代表が最高裁判所から一部有罪判決を受けたというニュース(? mode=LSD&mid=sec&sid1=102&oid=003&aid=0003852518)を聞いた時、正直に言うと、私は思わず噴き出してしまいました。恥ずかしいことですが、率直に言うとそうだったのです。笑うようなことでもないのにですね。私を思わず何分間か失笑させたのは、「名誉毀損」という魯会燦・元代表の起訴理由でした。一体、財閥の奨学生になった法曹人に毀損される「名誉」などあったのか、そのような「名誉」に対する「毀損」を国民の血税を費やしながら深刻に議論する裁判所というところは一体何をするところなのか、主にこういうことでした。ところが、思う存分笑い転げてからふと我に返ってみたら、思ったより状況が深刻だということを再び直視するようになりました。常識を備えた一般人にとって、「餅代」疑惑を晴らしきれなかった裁判官の「名誉」は概念としてまったく成立しえないものの、一般人の常識と大韓民国における「法」の世界の間には甚だしいギャップが存在するのです。一般人たちにとって「餅代検事」を「名誉に」思うことはそれこそ不可能に近いでしょうが、「法」の世界では彼らは「不起訴処分」となり、通常の一般人とまったく同じ(法的な意味での)「名誉」を保持するということです。無罪推定原則、すなわち有罪判決が確定されない限り、如何なる者も「犯人」ではないという原則自体はとても立派なものです。ですが「餅代」疑惑が極めて濃厚であっても、こうも簡単に「不起訴処分」になる一方、疑惑の内容を単に自分のホームページに公開したという罪名で有罪になってしまう この狂った世の中では、「有罪判決の確定」は果して何を意味するのでしょうか。「有罪判決の確定」が基準とする無罪推定原則は、以上のような状況では簡単にその意味を失ってしまいます。何の危険も感じずに気楽に「餅」を召し上がりながらウェルビーイングなライフをお楽しみになれるお偉方の「名誉」に関するお話です。

判決文の一部をさらに詳らかに覗いてみると、今度は失笑を通り越した憤りがこみ上がってくるのを感じました。たとえば、「(Xファイル上の)会話の時点は公開の時点から8年前の事(であるため)、これを公開しないからといって、公共利益に甚大な侵害の生じる可能性が著しいとは言えず、「公開して得られる利益及び価値」が「通信機密を維持して得られる利益及び価値」を上回るとも見られない」という件などは、おそらく私のみならず常識ある一般人なら誰でも激しい憤りを覚えるに足るでしょう。贈収賄が8年前に行われたといっても, 賄賂を贈った疑惑が持たれた側は引き続き韓国社会において絶対的な影響力を行使しているし、不法に賄賂を受け取った疑惑が持たれた側も引き続き「法」を執行しているにもかかわらず、このような状況が「公共利益に対する甚大な侵害」でないなら、最高裁判所が考える「公共利益」とは一体何なのかが分かりません。三星の社益を「公共利益」と取り違えているような印象を濃く与えるものです。民衆の血税で給料をもらっている検察の実体が何なのかを納税者たちに思い知らせてくれたことは少なくとも民衆には「利益と価値」になるのではないでしょうか。魯会燦 元代表も指摘したように、この事件で浮き彫りになったのは、一般人の「正義」観念と「法」の世界に通用する「法的な正義」観念との間の甚だしい乖離です。「Xファイル」で「2年間の餅代」として取り沙汰された「5千万ウォン」が2年どころか約5年間の勤労所得に当たる多くの庶民たちにとっては、無慈悲な搾取で民衆から掠奪したお金を賄賂としてバンバン使う資本も、そのお金で私腹を肥やしながら財閥の「私設警備隊」役などを務める「公務員」たちも、最早「正義」や「名誉」とは何の関係もない者たちです。「法」の世界にこのような常識的な正義観念が何ら影響を及ぼしえないことが、結局 大韓民国の支配体制の安全性に相当な問題を引き起こしうるということを支配者たちが気づけないという事実は、奇妙に感じられるだけです。

「5千万ウォン」をその場限りの「餅代」としてでなく、5~6年間のお米やおかず、家賃、学費などに使っているこの世のチョルスとヨンヒたちは極めて残酷な階級的支配の世界を辛い思いで生きているのです。小規模な商売から得られる所得は一貫して減り続けており、不正規労動をして得られる給料は10年前も今も70万ウォンから150万ウォンの間を往来しながらほとんど増えていないというのに、食糧品価格から特に教育費までが日に日に騰がり、「GNP成長率」が4%になろうが6%になろうが、生活は苦しくなる一方です。不景気と物価上昇に苛まれている庶民たちは江南族たちの「ウェルビーイング」や「沒入英語ブーム」を見ながら一体何を感じるのでしょうか。彼らの憤りをかろうじて抑制されているのは、この社会には階級の支配と不平等の上に、ある種の超階級的な「統合」の枠組みが存在するというナイーブな信頼です。庶民に怒りを忘れさせ「社会統合」の観念を受け入れるよう仕向ける最も強力な枠組みといえば、ナショナリズム(国民主義/国家主義)と超階級的な「法治」への信頼でしょう。前者については今後改めて書くつもりですが、後者については、特にある程度 民主化し開放され、これ以上「忠孝思想」や「我々は皆 檀君お爺さんの子孫」ということでは住民たちを結合させられなくなった今日のような社会では重要です。「法」という超階級的な「神秘」への大衆的な信頼がなければ、この体制は危機の局面でもろくも瓦解しうるという点を、体制管理者たちもはっきり分かってはいるでしょう。

本人たちの長期的な利害関係のレベルで「法の威信」は高められなければなりませんが、彼らは長期的なビジョンより短期的な私利私欲にあまりにも縛り付けられすぎているせいか、飽くことなく彼らの「法」を笑いものにしているわけです。龍山惨事の際は再開発業者や警察の立件はまったく成されなかった一方で、家族たちの生存のために悽絶に闘った撤去民の被害者だけが捜査、裁判の対象になったこともそうですし、「餅代検事」事件では 検事でも三星でもなく、「泥棒を見て『泥棒だ!』と大声で叫んだ」記者や魯会燦 元議員らだけが立件の対象になったこともそうです。「有銭無罪、無銭有罪」がこの国の唯一の実質的な法になってしまったということを多くの人々が認知するようになれば、結局これはこの体制への致命打につながるでしょう。問題は、多数の憤りが多数による組織的な行動につながることに時間がかなり掛かるため、その間にも またどれだけ多くの庶民たちが強制撤去で追い立てられたり不当解雇で生計を立てられず自殺に追い込まれたりするのか 誰も分かりません。ところが、「餅代」を受け取ったり贈ったりする人々は、そのお金からプンプンする匂いを嗅ぎ付けるだけの嗅覚を持っていないようですね。

原文: http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/35310 訳J.S