原文入力:2011/02/18午前08:18(3772字)
朴露子(バク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学
ノルウェーの保守系日刊紙と韓国国内の保守系日刊紙を比較することはかなり難しい作業です。いくら同じ保守だからといっても、ノルウェーの保守派が地下鉄労動者たちのストライキに対し「市民の足を引っ張る」などと伝えるのを想像することは容易ではありません。そんなふうに出たら、地下鉄労動者たちはもちろん、他の「市民たち」さえもその保守系新聞を読まなくなるのが明白だからです。しかしながら、少なくとも一つの点に関しては、ノルウェーの保守系新聞も国内の保守系新聞も、そして世界の大多数の「主流」メディアもかなりの類似点を誇示しています。彼らがすべて北朝鮮を戯画化することを得意としているのみならず、主な販売戦略の一つとしているということです。もちろん、その方法においてはかなりの相違は見られます。韓国の場合は、蔑視と戯画化は常に憎悪が入りまじったものとなっていますが、ノルウェーの保守系新聞は単に「世界から隔離された、かつての王のような独裁者が統治するアジアの国家」を異国化しつつ「面白い見もの」と見なしているだけです。
たとえば、何年前かノルウェーの主要保守系日刊紙『アフテンポステン』の特派員は平壌に停泊しているアメリカの情報収集艦プエブロ号を訪問し、その紀行文を新聞に載せました()。タイトルは「金大佐がアメリカに勝った時」でした。「我々が米帝に立ち向かい勝利を収めた」と語ったガイドの「金大佐」の話を「戯画化」し、「お前たちは本気でアメリカに勝ったと思っているのか。ハハハ」などと言いたげな表情を密かに浮かべているのです。特派員は記事の末尾に「アメリカに勝ったと話した金大佐」がプエブロ号のガイド代として10ユーロを要求したのを受け、「米帝に勝つことも結構ですが、お金がすべて引き出された国庫に少しの外貨を入れることも無視できないことでしょう」などといった感想をことさらに書き添えています。オスロで10ユーロなら、かろうじてコーヒー一杯が買えるくらいの金額ですが、ノルウェーの記者は「金大佐」のプライドと彼の共和国の貧困を笑いものにしているわけです。本当に、豊かな者のこのような傲慢さを目にすると、かえって極端に好戦的で単純きわまりない北朝鮮の民族主義と反帝主義は遥かに崇高に見える時もあります。民族主義に問題を提起することもできるし、民族主義に論争を挑むこともできますが、豊かな者たちの傲慢さを目の当たりにすると論争する気もさらさら出てきません。ただ不愉快なだけです。しかし、いずれにせよその記事からは異国趣味や傲慢さは感じられても、これといった憎悪心などはありません。このような側面は『朝鮮日報』とはかなり隔たりがあると見るべきでしょう。
さて、韓国を「最尖端技術の国」、「韓流のメッカ」などとほめたてる(もちろんサムスンやLGから広告もたくさんもらっている)これら国内外の保守系新聞が北朝鮮を憎悪の対象、あるいは単に笑いものにしていることは果して正当なのでしょうか。今はなかなか想像もつかないことですが、少なくとも1970年代までは韓国に比べ明らかに経済力などの総合国力で上回っていた北朝鮮は二つの分断国家間の競争でリードしていました。今は北朝鮮の年間国内総生産(約260億ドル)はサムスン電子の年間収益の約5分の1に当たりますが、少なくとも朴正煕維新体制の末期まで南側の支配者たちも知識人社会も密かに - そして時にはほとんど露骨に- 北側を参考にし北側を学び、または北側を「創造的に」模倣したりしました。またそうさせた理由の一つは、両支配体制の鞏固化過程がかなりの部分で並行しており、互いに似ていたということです。両側が望もうが望むまいが、類型的に似たような軌道を辿らざるを得ないことは分断体制の構造的な特徴といえば特徴です。たとえば、北側で南労党に次いでソ連派と延安派が解体する過程がほぼ完了した1958年に、南側では1956年の大統領選挙で23%の票を獲得した曺奉岩(チョ・ボンアム、1898~1959)先生の進歩党を抹殺してしまいました。北側が朴憲永などを殺したことで「東欧型社会主義」という代案を反古にしたように、南側が曺奉岩などを殺したことで公共性の強い、国家主導の「第3世界型社民主義」という代案を捨象してしまいました。本人も読めなかったフランス語やラテン語で書かれた書籍を参考文献に掲げた「学位論文」を提出し「博士様」となった李承晩は「ガンマン」金日成を見下していたものの、両体制は多くの面で一卵性双生児でした。1972年に南側で維新体制が宣布される一方で、北側で主体思想の「唯一化」が成されたのは果して偶然でしょうか。大きく見れば、 ―たとえ程度の差などはあっても― 1995~98年の北側の大飢饉に次ぐ部分的な市場経済の導入と、1997~1998年の通貨危機以降の南側の新自由主義化も同じ巨視的な過程(韓半島における開発国家型組合主義の危機と市場主義への転換)の一部分と見なすこともできます。そのため、北側を見下せば結局は我々自身を見下すことになるわけです。
しかも1950~60年代の、北側が南側との競争で完全にリードし南側による模倣の対象となっていた時代をも考え合わせれば、なおさら「蔑視」する理由などないことは簡単に理解できるでしょう。ソ連、中国との関係において「民族的自尊心」を生かし、ソ連と中国の力を大きく借りた新政府の民族主義的な正当性を立証しようとした北側は、すでに1950年代初頭から国学振興プログラムを稼動し、特に主要文献(『朝鮮王朝実録』、『高麗史』など)の易しくて正確な国訳と実学などの「近代萌芽的」伝統の「再発見」に力を注ぎました。まあ、茶山丁若鏞(1762~1836)や燕巌朴趾源(1737~1805)に対し「近代萌芽的」というのは確かに近代至上主義的な牽強附会の側面が強いものの、とにかく『熱河日記』が時宜を得てきちんと国訳出版され、今や南側でもよく読まれているわけです。同じように、『高麗史』も南側の訳より北側のそれがはるかに読みやすく正確です。李承晩政権が北側のこうした成果を目にしながらも何らの対応もできなかったのですが、朴正煕はようやく1965年に民族文化推進委員会を文教部の傘下に置き、古典の国訳事業を少しずつ支援し始めました。実学「再発見」の大切さは南側でも早くも千寬宇(チォン・グァンウ、1925~1991)先生などが主張していましたが、特に茶山に関する本格的な再照明が成されたのは北側よりずっと遅れた1970~80年代です。まあ、個人的な思い出を話せば、私は学生時代に郷歌研究の権威者であった指導教授の強要(?)で『楽学軌範』を読まなければならなかったので、当然1956年の北訳本で読みました。1980年に民族文化推進会が遅れて出した翻訳本より遥かに読みやすく正確だという評価があったからです。
国学はともかくとして、1960~70年代の南側は他にもあまりにも多くの面で北側に「追い付こう」として汗水を流しました。朴正煕の5ヶ年経済計画などは、満洲国の経験も念頭にはありましたが、密かに北側の5ヶ年計画を追い抜いてみようという下心で成されたものでもありました。浦項製鉄建設など軍需工業の基盤となる鉄鋼産業の振興は明らかに鉄鋼生産という戦略的な部門で北朝鮮を圧倒してみようという計算なしにその推進は不可能だったでしょう。もちろん、すべての分野で北側が必ずしも「先に」足を踏み入れていたわけではありません。最近北側の核兵器が問題になったことと関連して覚えておかなければならないのは、金日成が1959年にソ連と核研究関連の協定を結んだのは、1956年に南側とアメリカの核協力関連の協定を知り、南側に「圧倒」されることを懸念したからです。面白いことに、核と原子力の分野ではむしろ南側が初めは遥かに積極的でした。しかし、たとえば政治的に敏感で重要な国学などの研究を国家の直接的な支援及び統制下に置くことにおいては、1978年に創立された南側の精神文化研究院は、明らかにすでに厳然と存在していた北側の社会科学院を密かに「ベンチマーキング」したものです。今この話を聞いてプライドを傷つけられたと思う人も多いかもしれませんが、事実は事実です。
南側と北側は、韓半島的な近代性の多くの成就(たとえば文盲退治など)も多くの悲劇(特に全社会の兵営化)も一緒に共有しています。それだけに互いに労わり愛し合い、助け合い、互いの傷を治していくために支援し合うのが正常ではないでしょうか。私たちが正常な世界に生きていないこと、韓国の保守主義者たちが正常な思考を持てないでいることは大きな問題です。