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[寄稿] 李先生が教えた道/和田春樹

原文入力:2010-12-07午前08:11:51(1591字)

私が李泳禧(リ・ヨンヒ)先生について初めてよく知るようになったのは、1979年末に先生が<8億人との対話>出版事件で逮捕された時だった。私は当時<日-韓連帯運動ニュース>に‘真実が詭弁に見える時-李泳禧と転換の時代の論理’という題名で文を書いた。
その後、1980年<月刊対話>の論文集を編集する時は、先生の論文‘光復32周年の反省’(1977年8月号掲載)を選び私が翻訳した。その論文は厳正な自己反省の主張であり強烈な印象を与えた。

 "植民地主義と制度が我々を否定した。その不正を今からもう一度 私たちの意志で内部的に否定するところから始めなくてはならない。"

私は先生を本当に尊敬していた。したがって1984年末に先生が出国できるという話が伝えられた時はとてもうれしかった。

私が仕事をする東京大社会科学研究所の外国人研究員として受け入れるよう推進した。私が先生の宿舎が決まった富坂のキリスト教センターで待っていると、すぐに先生は婦人と一緒に到着された。私は伝説的な不屈の闘う知識人と対面した。李先生はかたい顔をしておられると思ったが、顔に笑いが溢れでるなり親切で開放的な人柄が伝わってきた。宿舎近くの酒場に行き、先生と酒を飲んだ。先生は日本の植民地支配、日本政治家の妄言は鋭く批判されたが、日本人には反感を持っておられなかった。小学校の時の日本人教師に対して懐かしさを込めて話された。

<ハンギョレ>新聞が北韓に特派記者団を送ることを先生が考案し、私に協力を要請し安江良介(前<世界>編集長・岩波書店社長)氏にお願いした。それは長い期間にわたる話だった。

先生はまた私にベトナムを訪問してみたいと言われ、ベトナム大使館との掛け橋を要請された。一等書記官がその話を聞き本国に連絡することになった。

1989年春、ベトナムから受け入れるという連絡が来た直後、先生は記者団の北韓訪問計画の件で民主化された韓国で逮捕された。先生が縛られた姿を新聞で見た時の衝撃と悲しみは忘れられない。

1990年、私は初めて韓国に行けるようになった。訪問初日、先生が私に会いにロッテホテルに来て下さった。
その時から20年間、韓国に行く度に先生を訪ねた。先生は車の運転を習い、私を乗せて漢江を見せて下さった。その時 「もう先生と呼ぶのはやめて下さい」とおっしゃった。これからは友人としてつきあおうということだった。

慰安婦問題(日本の民間団体であるアジア女性基金を設立し、軍隊慰安婦被害者に慰労金を渡そうという方案で和田教授らが中心的に活動)で韓国の知人らと緊張関係になった時、先生は慰安婦問題に関与するのは止めたらどうかと助言された。

先生が著作集を出され、もう執筆活動はしないと宣言されたという話を聞き、私は「まだ先生の意見が重要です。ずっと発言して下さい」と申し上げた。先生の訃報を聞く前日、私は再び先生の北方境界線(NLL)に関する著名な論文を再読して病床にいらっしゃる先生を思った。

今日、先生の1974年のお言葉が思い出される。「人間解放と思想の自由の歴史は、どこでも独善に対する懐疑が、権威に対する理性が勝利をおさめる長い闘争の反復だ。"

先生は "王様は裸だ" と言った少年の勇気を褒めることより、その少年が抱いていた人々の‘人間的堕落、社会的堕落、知的後退’を告発してやまなかった。

私は粛然として先生の訃報を聞いた。私たちは先生が教えた道を歩いていかなくてはならない。残された時間が長くないと言っても。

和田春樹 東京大名誉教授

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/452453.html 訳J.S