今年4月、憲法裁判所で大統領を罷免するという判決文が朗読されてからしばらくして、龍山(ヨンサン)大統領室に掲揚されていた鳳凰旗が降ろされた姿をテレビを通じて目の当たりにした。そのような姿から、鳳凰は大統領を象徴していること、大統領執務室の後ろの壁には大きな鳳凰の文様が明るく光を放っていることが国民に改めて知られるようになった。
ならば、鳳凰とはどのようなものか。鳳凰とは現実には存在しない架空の鳥だ。鳳は雄、凰は雌、合わせて鳳凰だ。特に東洋では、架空の鳥が皇帝や天子を象徴する縁起の良いものとして認識されてきた。インターネットで検索してみると「鳳凰は聖天子の象徴と認識し、天子が居住する宮殿の門に鳳凰の文様を飾り、その宮殿を奉闕、天子が乗る車を鳳輦、鳳車、鳳輿と呼んだ。中国で天子の都である長安を鳳城と言い、宮殿の池も鳳池と称した」という説明がある。
筆者は以前から、天子、皇帝、王を象徴する鳳凰が大統領府の文様として使われることに疑問を感じてきた。民主共和国の大統領は国では最大のしもべであり、公僕の最高位なのに、なぜ王を象徴する文様で大統領室を飾るのかという考えからだった。少し前から憲法が帝王的憲法から脱却していないという声が上がり初め、李承晩(イ・スンマン)、朴正煕(パク・チョンヒ)、全斗煥(チョン・ドゥファン)のその苛酷な独裁政治が憲法の欠陥によるものではないかと思うようになり、王という錯覚を起こさせる鳳凰の文様や鳳凰旗にも原因があるのではという考えに至った。
にもかかわらず、確信を持って鳳凰旗を下げて文様も変えなければならないと主張するにはなかなか勇気が出なかった。しかし最近、特検を通じて、尹錫悦(ユン・ソクヨル)夫妻の捜査過程を見守りながら、今や確信を持てるようになった。尹錫悦、キム・ゴンヒ夫妻が昔の王宮の執務室を観覧したとか、帝王や王でなければ足を踏み入れられない所までに立ったり座りながら「王様ごっこ」をしたという新聞の報道を読んでから、もはや本当に鳳凰旗を降ろしてその文様を必ず変えるべきだと主張せざるをえなくなった。そして李承晩、朴正煕、全斗煥など元大統領らが王よりも大きな権力を振りかざしたことを思い出し、王や帝王と勘違いさせた鳳凰の旗や文様を恨む気持ちまで抱くようになった。
今や韓国では、主権者である国民の力で内乱首謀者である王(大統領)を追い出し、いわゆる国民主権時代の政権が発足した。主権者である国民が投票を通じて公僕の最高責任者として大統領を選び、国の最大のしもべとして国民のために服務しなければならない大統領なら、(自分が)王や帝王、天子のような地位だとは、たとえ夢であっても、決して思ってはならない。全国民の前で手のひらに「王」の字を書いて大統領に当選したうえに、鳳凰文様の執務室で勤めていたからこそ、尹前大統領は自分がの地位に就いたという錯覚に陥ったのかもしれない。だからこそ、夫婦で高宗と明成皇后の居所だった乾清宮の固く閉ざされた門もこじ開けて入り、明成皇后の寝殿である坤寧閤に二人きりで入って10分ほど滞在したりもしたのかもしれない。彼らは本当に王様としての振る舞いを実践したものとみられる。
12・3戒厳に関する特検捜査が進むにつれ、戒厳で内乱を起こした動機が明らかになっているが、最近の報道によると、内乱で反国家従北勢力を清算するという名目を掲げ、永久執権を企て、やがては「尹錫悦王国」の実現を夢見たという。3年近い政権の間にも、王権に匹敵する苛酷な独裁政治を続け、王様のように無所不為のあらゆる悪政を犯したことを見るかぎり、尹前大統領夫妻は明らかに(自分たちが)王様になったような錯覚に陥っていたようにみえる。常識をわきまえ、正常な思考を持った大統領たちでも、時には王様と勘違いしているような姿を見せたりしてきたが、ましてや非常識で常軌を逸した大統領なら、尹前大統領夫妻のように、奇怪な「王様ごっご」もはばからないことを、私たちは目の当たりにしてきた。(このようなことを防ぐためには)帝王的憲法の改正も欠かせないが、まず簡単にできる鳳凰旗を降ろして鳳凰の文様を消すことから始めなければならない。
普通の人間でも巨大な権力を持つようになれば、それに酔いしれるものだ。正常な人なら制度を通じて権力を節制し、制度の欠陥があっても人格と自制心で権力の魔手から抜け出すことができる。ところが、王の象徴である鳳凰の模様と文様で飾られたところで仕事をしていると、権力に対する陶酔がさらに加速化せざるを得ないのはあまりにも当然だ。
王が勅命を下すように戒厳令を発表した姿を思い出そう。龍山(ヨンサン)から青瓦台に大統領室を移すことを機に、今度は必ず鳳凰旗を下ろし、文様も変えることを切に願う。