今年の大学修学能力試験(修能:全国一斉に実施される大学入試)の難易度が改めて話題になっている。初めて聞く話でもないが、今年の修能ではネイティブでも解けない英語の問題や、その分野を専攻する哲学の教授たちも理解できないという国語の文章などが、例年とは異なる水準で受験生たちを苦しめたようだ。そもそも(大学入学の条件を)学力考査から修能に転換したときに掲げられた趣旨が意味をなさなくなるほど、今や正常の範囲を超えて、制限された時間内に早く問題を解く技術がどれくらい訓練されているかを確認する技術力試験であることを隠していないようだ。
実際、このように常識外れの高難度問題が登場しているのは、受験生に対する評価力を無理矢理作り出すための苦肉の策の結果だと思われる。韓国においていかなる領域よりも有能な人材が作業している私教育(塾や習い事)市場は、既存の修能問題の類型を見抜き、その突破法をすでに熟知している。修能の出題者の立場からすると、私教育で訓練された受験生を序列化するための高難度の問題を、それが正常であれ非正常であれ、何としてでも絞り出すという課題を抱えている。このように毎年、韓国最高の私教育市場の秀才たちと戦って新たな難題を作り出しても、私教育市場はまた素早く反応し、改めて問題の難易度を上げるために出題者たちは新たな拷問法をひねり出す。そのようなことが繰り返されているのだから、韓国の修能問題が次第に正常範囲を逸脱してアンドロメダへと向かっているのは当然のことだ。すでに2016年にイ・セドルを下して囲碁を占領し、今や世界のコーディング大会であらゆる人間を下している人工知能(AI)が、まだ韓国の修能ではまともに実力を示せずにいるのだから、まさに修能こそAIが征服できない人類の知性の絶頂だと喜ぶべきなのかもしれない。
その裏にいかなる理由が隠されていたのかは分からないが、尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権がいわゆる修能の「キラー問題」をなくせと言ったのは、その問題認識からすればある面では妥当だった。正常な教科範囲から逸脱した問題で人為的に評価力を高める出題をすることは、本来の修能の趣旨や入試の公正さから逸脱しているとの指摘には反論できないからだ。にもかかわらず、もちろん尹錫悦政権がおこなったことはほとんどがそうだったが、実際のところ問題の本質はキラー問題そのものではなかった。問題の核心は、それがキラー問題であれ、あるいは今年のようにカントの人格同一性を問う高難度問題であれ、修能の成績は結局、それが1位から最下位までの序列を作り出すという制度的装置だというところにある。
学齢人口が減り、肝心の入学定員を満たせない大学も増えているが、それでも修能で高難度の出題が以前より必然的に猛威を振るっているのは、結局のところかつてよりいっそう大学の序列の硬直化が進んでいるからだ。かつては各地域の主要大学が首都圏にあるそこそこの大学に劣らない評価を受けていたが、今はソウル首都圏所在の大学の頭文字だけで作られた序列が固定化し、受験生や保護者なら誰もが聞いたことのある歌の歌詞のようになっている。小数点以下の数桁まで換算され、このようないくつかの大学の入学の当落が決定されているものだから、受験生を並べる道具として難度を非正常に高めることは、異常にみえようとそうでなかろうと、問題の本質ではないのだ。
今年も多くのメディアが、実際の思考力の測定とかけ離れた修能問題の難易度の異常さを指摘しているが、肝心のいっそう硬直していく大学の序列を問題視する声は聞かれない。いや、むしろ、このような大学の序列化を最も先頭で積極的にあおっているものこそ、まさに韓国メディアだといった方が正しいようだ。1990年代半ばから韓国のメディアでは、大学の評価を前面に押し出して大学に順位を付け、それを並べるのが当然の年例行事になってしまっている。評価項目が妥当なのか、評価方法は信頼できるのかについては多くの大学から不満の声もあがっていたし、序列化の問題点を指摘する声も少なくなかったが、巨大メディアの威力の前では結局のところ、大学は序列化の列車に自ら乗り込み、後から参入したメディアも様々な名で大学順位付け市場をさらに広げた。年末になると多くのメディアが様々な名前で企業やブランドに順位を付け、企業に賞を与えるのは、結局のところそれが金儲けになるからだ。毎年発表されている大学ランキングには、果たして異なる理由があるのだろうか。
ホン・ウォンシク|同徳女子大学ARETE教養大学教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )