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無神論者からの教皇フランシスコへの追悼【寄稿】

登録:2025-05-02 09:11 修正:2025-05-05 09:09
スラヴォイ・ジジェク|リュブリャナ大学(スロベニア)、慶煕大学ES教授
2016年3月24日、教皇フランシスコがローマの難民収容所を訪問し、難民の足を洗った後、頭を下げて口を合わせている=ロイター//ハンギョレ新聞社

 ローマ教皇フランシスコが世を去った。彼はこんにちのカトリック教会において、最善の姿を実践した人物だった。ならば、キリストの代理人として彼が代弁したキリストとは、どのような姿だったのか。私は、彼が人生で体現したキリストは、私が「キリスト教無神論」という概念のなかで言うキリストと深く結びついていると考える。

 私はキリストを、人間の間に真の愛が存在するたびにその場にいる媒介者だとみなす。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ18:20)、 「愛さない者は神を知りません。神は愛だからです」(ヨハネの手紙一4:8)でみられるように、キリストは愛の主体でも客体でもなく、愛そのものだ。旧約聖書の戒めは「あなたの神を愛せよ」だったが、イエスはその愛の対象を、神ではなく隣人に移した。このような観点でみるとき、キリスト者とは、宗教的な人というよりも、キリストのように他人のために生きていく存在だ。

 聖書は愛を、エロス(性的な愛)、ストルゲー(親と子の間の愛)、フィリア(性的ではない愛、または友情)、アガペー(大義のために献身する人たちを一つにまとめる無条件の愛)の4つに分ける。アガペーの次元においては感情は副次的であり、重要なのは大義に献身する同志たちによる平等な共同体だ。したがってアガペーは、テリー・イーグルトンの哲学が指摘するように、「政治的愛」として理解されなければならない。真の愛は感情ではなく、他人に対する態度についての実践であり、人間の本性を超える徹底した献身と絶え間ない努力を要求する。そのため逆説的だが、キリストは愛を命令する。「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである」(ヨハネ15:12)。キリストは「私があなたがたを愛したように」という言葉を通じて、自身を媒介に人間が互いに直接結びつき、共同の大義に献身するよう要求する。

 キリストが復活した後、弟子たちに初めて与えた言葉は「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)だった。こんにちにおいて「平和」は、戦争を正当化するとき(「平和介入」)または、現実と感情的距離を置くことを助長するとき(「内面の平和」)に用いられたりする。われわれはこのような歪曲を乗り越え、キリストが語った平和をふたたび見つめなければならない。その平和とは、個人の心理状態や遠い未来の理想ではなく、今ここで他人と共存する社会的実践だ。

 イエスはゲッセマネの園で弟子たちに語った。「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい」(マタイ26:38)。彼は深い脆弱性のなかで、たった一つを求める。それは他でもない連帯だ。理由をすべて知ることができなくても、無条件の愛をもってそばにいてほしいという連帯の要請だ。

 真のキリスト教的懐疑の本質は「神は存在するのか」という問いでない。それは、「私ははたして、信仰が求める人生全体に自分を投げ出す準備ができているのか」という倫理的な質問だ。そうした点において、すべての神学は政治的であり、われわれが世界とどのような関係を結び、どのような責任を負って生きていくのかを問う。私はイタリアのラファエル・ノガロ司教の「イエスを必ずしも信じる必要はない。愛で十分だ」という宣言に全面的に同意する。

 キリストの到来は予定されていた事件ではなかった。しかしその事件以降、われわれはそれ以前の歴史があたかもそれを予告していたかのように、再読することになる。愛、倫理的闘争、さらには神の運命でさえ、事件後に遡及的に再構成されるのだ。哲学者ヴァルター・ベンヤミンが述べたように、現在の闘争は現在の運命だけでなく、過去の失敗までも救うことができる。教皇フランシスコは復活祭の翌日に亡くなった。キリスト教無神論者として、私は彼が正義と連帯のためのわれわれの闘争のなかで復活し、われわれのなかでずっと生き続けていくと信じている。

//ハンギョレ新聞社

スラヴォイ・ジジェク|リュブリャナ大学(スロベニア)、慶煕大学ES教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1194543.html韓国語原文入力:2025-04-27 19:37
訳M.S

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