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[寄稿] より大きな新しさだけがMBを越える/チョ・ヒヨン

原文入力:2010-05-24午後09:25:34(1706字)

←チョ・ヒヨン聖公会大社会科学部教授

先日、汝矣島でタクシーに乗った。ハンナラ党本部付近にあるコーヒーショップに行くところだったのだが、どうぞハンナラ党本部前で降りてくれと言った。タクシー運転手は私がハンナラ党に勤める人間と思い、私に話しかけた。彼は 「今の構図は60年代の共和党と民主党の構図と同じだ」として「共和党がいくら間違っても、その支持者たちは民主党に移動しない」と診断した。彼はまた「なぜなら民主党がビジョンもなく新しくもないためだ」と説明した。

この頃、私は少し違う形ではあるが類似した分析をしていた。ただ一つだけ付け加えたかった。60年代の朴正熙政権に反対する抵抗運動を象徴した民主党や新民党、ユン・ボソン候補は朴正熙を越えられなかった。実際その反転は70年代に金大中と金泳三が主導した‘40代旗手論’が現れてからだった。朴正熙に代わる政治的リーダーシップの‘希望’が見えたためだ。その希望が見え、大衆は動き始めた。反独裁民主化運動も巨大な国民的運動に発展していった。

このように‘希望で動き始めた’反独裁運動の民主化要求を、朴正熙は受け入れるどころか暴力で鎮圧しようと考えた。それで結局は崩れたということだ。

87年以後、20年間の反独裁勢力を代表して民主党に象徴される反独裁改革自由主義政党があった。ところで評価がどうあれ実際に反独裁民主政府を経てその政党の新しさとビジョンが枯渇した。自由主義政党の単一リーダーシップがこわれた。そしてそれに代わる新たな政治的リーダーシップが不在ということがまさに現段階の韓国民主主義の核心的な正体地点となった。

こういう状況で李明博政府下での苦痛を越えるため、自然に‘反MB連合’のための努力が現れた。手に余るからと連合してでも希望を作ってみようということだ。単一リーダーシップがないので集団リーダーシップを持ってしてでもMBに対抗してみようということだった。

しかし5+4に象徴される反MB連合の試みは民主党のリーダーシップ不在と民主党内部の多様な利己心により座礁した。そうなるや不安が大きくなる時点で、国民は首都圏の有力候補ら、例えば結果を予想できなかったキム・ジンピョ-ユ・シミンの単一化に対しても喜びを感じ大きな反響を見せた。そこで単一候補の支持率が上昇している。

こういう状況の反転も十分に意味がある。しかし、これだけでは足りないと考える。私の視点から見れば、前政権の2つのアイデンティティを象徴する連合だけでは足りない。ややもすると‘前政権対現政権’の対立構図に行きかねない。そうした点で親盧勢力が浮上すればハンナラ党にかえって勝算があるというハンナラ党一部の分析も熟慮しなければならない。

ユ・シミン-キム・ジンピョの連合や、ハン・ミョンスクとイ・サンギュの連合だけでは、ハンナラ党を圧倒するには十分でないというのが私の思いだ。
盧武鉉前大統領の死後、保守言論によって過剰蔑視された参与政府を国民が再評価しているものの、明らかに参与政府下で失望した国民も存在する。ハンナラ党や参与政府が似たようなものと考える労働者や貧民も存在する。もちろん李明博政府の新権威主義に絶望する若い世代、そして政治一般に対し虚無主義的に感じる若い有権者もまた別に存在する。こういう多様な国民が、新しい政治と感じることができてこそ、李明博政府に失望した国民に完全な希望として近付くことができる。

ノ・フェチャンとシム・サンジョンの孤独な闘魂に拍手を送る理由もここにある。彼らが完走せず‘終盤の単一化’をしようが、あるいは‘難しい完走’をしようが、彼らが前進する歩幅程度は韓国政治の希望が育ち反MBは豊かになる。彼らの肩にもMBを越える希望が懸っていると私は信じず。

チョ・ヒヨン聖公会大社会科学部教授

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/422304.html 訳J.S