私は1952年に日本で生まれた在日コリアン2世だ。日本の高校3年生だった18歳のとき、朝鮮人であることを自覚するようになった。しかし、どうすれば朝鮮人として生きていくことができるのか分からなかった。悩みぬいた末、在日コリアンの同級生と日本の学校内に「朝鮮文化研究会」を作り、それまで使っていた日本名を捨て、朝鮮人として生きていくことを決意した。朝鮮文化研究会で朝鮮高校の生徒と交流し、日本の高校に通う在日コリアンの生徒たちの集まりにも参加した。その過程で、朝鮮人として生きようとするのであれば、韓国語を習わなければならないと考え、韓国留学を決心した。1971年に初めてソウルに来て、1973年に韓国外国語大学フランス語学科に入学した。
1975年11月、保安司令部の要員が下宿に来て、令状なしで私を連行した。40日間保安司令部に監禁されて拷問と脅迫で自白を強要され、私は「スパイ」になった。韓国語と自分たちの歴史を学びたくて加入した朝鮮文化研究会で総連系の人に会って話したことが、「スパイ」になった主な容疑だった。在日コリアン17人が拘束された、いわゆる「学園浸透スパイ団事件」だ。私は5年の刑を受けて大田(テジョン)刑務所で獄中生活をすることになった。そんな私を支援して激励してくれたのは、日本の人たちが組織した「救援会」だった。救援会の人たちは裁判を傍聴して励ますためにソウルに何度も来て、大田にも何回も面会に来た。
私は救援会がなければ健全な精神ではいられなかっただろう。私が釈放されて1981年に日本に帰ってきた後も、全斗煥(チョン・ドゥファン)独裁政権下で在日コリアンのスパイ事件が多く発生した。拘束された在日コリアンの家族に会って励まし、救援会とともに支援運動を行った。多くの人たちの支援を受けたので、今度は私が取り組まなければならないと考えた。
労働運動に関心があった私は、韓国の良心囚がほとんど釈放された1990年代後半に「在日高麗労働者連盟」(高麗労連)に加入した。高麗労連は朝鮮半島にルーツがある在日コリアンであれば南北関係なく誰でも加入できる労働組合だった。その組合で在日コリアンに対する労働差別改善や韓国人労働者の支援と交流のために活動した。監視を受けてはいたが2000年代になってからは韓国に行くことができるようになり、日本と韓国の労働者の交流の過程で通訳を担当して何度も韓国に行った。
2005年に「真実和解のための過去事整理委員会」(真実和解委員会)ができたが、日本に住む私たちがその存在を知るようになったのは、ずっと後のことだった。国家権力による拷問を受けて長い間刑務所生活を経験した在日コリアンの良心囚は、国家機関である真実和解委員会を信じられず、当初は真相究明の申請をためらう雰囲気だった。私もそうだったが、真実和解委員会は韓国の民主化闘争の成果だと考え、2011年に真相究明を申請した。その後、裁判所が再審で「拷問で強要した自白には証拠能力がない」と判断し、2015年に無罪が確定し、賠償金も受け取った。賠償金は、国家の過ちは認めるが、金を支払うことでこれ以上の国家責任を問えなくするものだ。私は今後どのように生きていくのかを決めなければならなかった。大学に再入学することにした。2017年に外国語大学に入り、私より若い教授に学び、2020年2月に卒業した。大学生活の間に良い韓国の人たちと多く知り合い、卒業後も韓国で暮らしたくなった。4年が過ぎた今でも、ソウルに住みながら、在日コリアンの良心囚の再審を支援し、韓国内の難民問題や外国人労働者問題、ベトナム民間人虐殺問題などに関心があり、集いや集会に参加している。
韓国は、日本による植民地下での痛みを経験し、解放後の済州(チェジュ)4・3事件では多くの難民が発生して日本に渡っていき、韓国人も労働者として外国に働きに行った歴史がある。現在、韓国に住んでいる外国人や難民に対する韓国の政府や国民の態度を見ると、とても残念に思う。韓国が国家の過ちを認めて修正し、外国人や社会的弱者に対する人権を保障してこそ、「慰安婦」や「徴用工(強制動員)」問題に対する日本の謝罪を堂々と要求できる。そして、在日コリアンへの差別をなくせと声を上げることができる。私がこの問題に関心を持って連帯活動をする理由は、歴史の過ちは正さなければならず、良い社会を作る責任が韓国人として生きる自分にもあるという思いからだ。私はいつも弱者の立場に立ち、労働者の目で世の中を見ようと努力している。
李東石(イ・ドンソク)|在日コリアン (お問い合わせ japan@hani.co.kr )