1カ月前の往診の際に神経ブロック注射を打ったオさんのその後が気になって、私は電話をかけた。1週間前までは椎間板ヘルニアの痛みがとてもよくなったと感謝してくれていたが、声がさえなかった。腰の痛みがぶり返してしまったそうだ。話を聞いてみると事情は次のようなものだった。
痛み止めの注射を打ってよくなったため、久しぶりに田舎市に行った。買わないようにしようと思いながらも、実際に見てみると欲しくなって山菜、大根、さつまいもを買った。問題はその次だ。駅で降りて買ったものを積んで家に帰らなければならないが、タクシーが拾えなかった。最近はカカオタクシーアプリが使えないと、タクシーにを捕まえるのは大変だ。若い人たちは必要な時にすぐアプリでタクシーを呼ぶが、ほとんどの高齢者はそうはいかない。仕方なく重い荷物を両手に抱えて家まで歩かなければならなかったオさんは、結局椎間板ヘルニアに衝撃が加わって寝込んでしまった。また来て注射を打ってくれとオさんは言った。「交差点に立ってタクシーが5台も通ったのに、みんなダメだって! 予約で来たって。私たちみたいな老人はもう車にも乗れやしない。ただ立ったまま死ねということだよ」
「ガラスの壁」のある技術。使える人と使えない人に分かれる技術は、いつでも暴力となりうる。技術弱者に対する配慮のない韓国社会において、高齢者が一人でタクシーに乗る機会を奪うカカオタクシーアプリは、ある意味では高齢者を虐待する技術だ。ある人は「民間企業であるカカオタクシーには技術弱者に配慮するよう求めることはできない」と言うかもしれない。では、公企業は違うのか。KORAIL(韓国鉄道公社)が運営する列車はどうか。清凉里(チョンニャンニ)駅に行くと、アプリで列車を予約できない人たち(主に高齢者)が窓口の前に長い列を作っている。政府が本来の役割を果たしていたなら、タクシーアプリを使えない人たちもタクシーを予約できるようになっているはずだ。大した技術が必要なわけでもない。せめて公共機関がコールタクシーでも運営して、電話一本でタクシーを呼べればよいのだ。
今、韓国社会は「年寄りもタクシーアプリの使い方を学べ」と言っている。社会が高齢者に合わせるのではなく、高齢者が社会に合わせろというのだ。にもかかわらず大韓老人会をはじめとする高齢者諸団体は、これについて何の社会的発言もしていない。
植物に土があるなら、人には話がある。植物が土で育つように、人々の関係は話の中で生まれる。医者も同じだ。医者が向き合う患者の話は、医者を変化させる土壌となる。話の天敵は効率だ。「無駄な」話を聞いているものだから診療室はとても忙しい。効率の支配する診療室という空間では、話は生き残れない。話が消えた場所では人間的な変化も消え去る。
医者にとっては凶器で刺されて救急室に運ばれてきた患者たちはみな同じに見えるかもしれないが、患者ごとに加害者の顔はすべて異なる。診療室の中では同じ病名で呼ばれる疾患も、診療室の外ではまったく異なる社会的脈絡を持ちうる。診療室の医者にとってオさんの痛みの原因は椎間板ヘルニアだろうが、診療室の外の医者にとっては、痛みの原因はタクシーアプリが使えない高齢者はタクシーに乗れないという「ガラスの壁の社会」だ。診療室の医者は被害者の顔だけを見るが、診療室の外の医者は加害者の素顔に向き合う。医者が診療室の中に閉じ込もっている限り、ガラスの壁を共に壊す医者は現れない。痛みの社会的脈絡を見逃している医者は、痛みの目撃者であるにもかかわらず、自分が見たことについて社会的発言ができない。
その日の夜。腰が痛くて横になっているオさんのために、オさんの夫は夕食の支度をした。中風で片足を引きずりながらおかずを運び、圧力なべで飯を炊いた。やっとのことで食卓に座って炊飯器のふたを開けたオさんは泣き出してしまった。痛みだけのせいではなかった。「こんなに痛いならいっそのこと死んだ方がましだ」という苦しみ。圧力なべの中のおかゆともご飯ともつかない米粒たちは、言葉にならずに飲み込まれる世の人々の苦しみに似ていた。
今日も数多くの高齢者が、数多くの街で、相変わらず手をあげてタクシーを捕まえようとしている。
ヤン・チャンモ|江原道往診医者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )