数年前、四半期の合計特殊出生率が初めて0.8台となったというニュースに接して、同年代の女性グループのチャットルームで喜びの声が沸き起こったという話を30代の知人から聞いて、衝撃を受けた。その知人は「たとえ0.5まで下がっても政府は性差別の構造を変える考えはないなどと言っていた」とも話した。理解しようとしつつも、女性たちは社会に一種の復讐(ふくしゅう)心すら抱くようになったのではないかと心配になった。
出生率統計が発表されると必ず登場する「大韓民国消滅論」や、韓国の状況を扱ったニューヨーク・タイムズのコラムの「中世のペスト」のような表現と共に、またしても警告音がけたたましく鳴り響いている今日このごろ。今年の第3四半期の合計特殊出生率が0.7だったのだから、このままでは0.5になる日が来ないとは言い切れない。
少子化の克服に17年間で332兆ウォンを投入しても効果がないのが、ある特定の要因のせいであるはずがない。実際のところ、50代女性の私も、出産と育児の当事者たちをよく知っているとは言い難い。育児休業や児童手当どころか、2カ月の出産休暇がすべてだった時代に2人の子どもを産んだ。韓国の性差別的構造を批判しつつ、冗談めかして「女性に平伏したとしても子どもを産んでくれるかどうかなのに」と思いながらも、「以前よりはるかに環境が良くなっているのに」という気がする時もある。50代以上の男性が大半を占める政府や企業の上の人間たちは言うまでもないだろう。公立幼稚園の募集期間が終わった先週、定員競争に敗れた人々は私立幼稚園や習い事のローテーションを当たるしかないと言いつつ、ある後輩はフェイスブックに次のように書いた。「私教育(塾や習い事)のコストがどうだとか言って大騒ぎするすべてが笑える。当事者はかりが地獄を見る世の中」
古いものは滅んだものの、新しいものはまだ現れていない時代にあって、過去のパラダイムにとらわれた者たちが政界と政府に居座って対応策を作っている。性平等の視点が抜け落ちた少子化政策は、その当然の帰結だ。先月に結果が発表された少子高齢社会委員会と文化体育観光部による「少子化認識調査」でも、ジェンダーや世代ごとの認識の違いは変数として想定されていなかった。
女性の大学進学率が男性を初めて上回ったのが2009年で、共働きが当然だという認識がどの調査でも圧倒的となってからも10年近くになる。個人の暮らしを重視する流れはいっそう強まっている。だが、介護や育児の負担が女性に偏っている構造と認識は、どれほど変わったのか。ワンオペ育児の現実を衝撃的に伝えた『82年生まれ、キム・ジヨン』も「敏感な一部の女性の過度な反応」として片付けられたり、「フェミのレッテル」を貼られたりするのが私たちの現実だ。
「安全」に対する女性の感覚の変化も彼らは知らない。彼氏と付き合う前に、もしかしたらネトウヨなのではないかとSNS活動を確認する女性が増えている。ショートカットにしたからといって暴行されたり、デジタル性暴力に日常的にさらされたりする世の中にあって、女性は恋愛や結婚を考える際に「経済的理由」、「家事の負担」に加えて「生存の問題」に本能的に苦悩している。
だから性平等が少子化の唯一の解決策だという話をしようとしているのではない。しかし、性平等の視点の抜け落ちた少子化政策はほとんど機能しないということを、今や直視すべきだ。悪名高かったM字型を描く韓国女性の経済活動参加率のグラフが変化したのは示唆的だ。育児などに伴う退社で30代で底を打ち、40歳以降に非正規労働者などとして就職して曲線が上向いていたパターンが、ここ数年で変化しはじめたのだ。韓国開発研究院(KDI)の分析によると、育児支援の拡大ではなく、出産そのものが減ったり出産時期が後回しにされたりしたことが決定的な原因だ。一時、西欧の例をあげ、女性の経済活動が増えれば出生率は上がるだろうと期待されたりもしたが、韓国では機能しないわけだ。実のところ、結婚しない理由として「経済的負担」をあげる男性の割合が女性よりはるかに高いのも、性差別的な構造と無関係ではない。生計の責任は男性が負うべきだという家父長的な認識の犠牲者だと考えうるからだ。
2カ月前、韓国女性記者協会が主催した「韓日女性記者フォーラム」で、アンネ・カリ・ハンセン・オービン駐韓ノルウェー大使と話す機会があった。ノルウェーも1970年代に深刻な少子化を経験したが、両性平等指数が世界2位になったことで出生率が上昇した。その原動力について同氏は、「社会が総力をあげるべきだというコンセンサス」だと語った。
韓国社会は「総力」をあげているのか。仕事と家庭の両立というのは、女性の介護や育児の負担を軽減するアプローチとしてははっきりと限界があることがすでに明らかになっている。経済協力開発機構(OECD)加盟国の中で0~2歳の乳幼児の保育施設利用率が母親の就業率より唯一高く、育児休職期間が最も長く、20年間で家族福祉への公共支出が10倍にもなっているのに、後退ばかりを繰り返しているのは、介護や育児の便宜を論じてばかりで「誰が介護や育児を担うのか」という視点が欠如しているからだ。男女いずれもが介護育児と労働の同時主体だとみなす大転換を実現すると共に、職場環境の柔軟化は次元の異なるものでなければならない。「すべての省庁の産業省庁化」のように競争と成長ばかりを強調しておきながら、住居と教育の問題を解決すると声高に叫ぶというナンセンスも、やめるべきだ。
もしかしたら、少子化は「国家大改造プロジェクト」が求められる課題なのかもしれない。その覚悟がないなら、いっそのこと「人口消滅」を受け入れた方がましだ。国家的議論がはじまって十数年目にして、少子高齢社会委員会のパラダイムとして2018年にようやく採択された性平等を完全に消し去ってしまった現政権は、本当に少子化に危機感を抱いているのだろうか。
キム・ヨンヒ|編集人 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )