誰が本当に科学的なのか。「科学的」を獲得しようとする競争が激しい。「科学的」という言葉で決定と行為の正当性を認められようとし、「非科学的」という言葉で相手側の主張の基盤を崩そうとする。最近、福島原発汚染水の海洋放出の問題をめぐり特に激しかったが、他の懸案についても、「科学的」という言葉の力を借りて主張を貫徹したり対決を終わらせようとする試みが続いている。「科学的」という単語を何と思って誰もが使いたがるのだろうか。
多くの場合、「科学的」とは科学者が遂行する測定、計算、分析、予測の方法を指し示す言葉として用いられる。そのような方法を通じて得たデータを描写する言葉としても使用される。だが、誰にでも使える言葉ではない。福島原発汚染水の問題において、韓国政府が「科学的」という単語を取りだす場合、それにはこのすべての作業を実行できる予算、設備、人材を持っている集団の自信が含まれている。11日の汚染水関連の第24回定例ブリーフィングで、政府は水産物の放射能検査167件と国民申請の放射能検査104件の結果はすべて適していたと説明した。海洋放射能は108カ所にもなる海域で測定しており、「『迅速分析法』を用いて分析期間をこれまでの2カ月以上から4日以内に短縮」する予定だ。海水浴場20カ所の放射能も、すべて安全であることが明らかになったという。これは、政府でなければ実施が難しい規模の高価な「科学的」活動だ。この場合「科学的」は、各種資源を投じて取得する戦利品のようなものだ。
資金と時間と人材が投じられた研究活動という理由だけでは、それを「科学的」とは認めない人々もいる。それらの人々が強調するのは、普遍性、再現の可能性、透明性など、科学を科学たらしめる特性だ。汚染水のリスクを扱う活動が「任意の第三者によって検証され、再現可能なのかどうかを確認することによって、はじめて科学的という判定を下すことができる」というものだ。このような観点においては、「レシピの透明な公開」がなければそれは科学的結論ではなく、「誰かの一方的な主張」にすぎないことになる(物理学者イ・ジョンピル氏)。また、「リスクの関連関係が不確かな場合には判断を留保し、『潜在的リスク』として鋭意注視」する必要があるにもかかわらず、「これを『リスクがない』として誤認するのであれば、きわめて非科学的な態度」だとする指摘もある(物理学者チェ・ムヨン氏)。その場合、「科学的」は、結論に至る過程において備えなければならない慎重さや謙虚さのような態度や徳性の問題に拡張される。
「科学的」という言葉が、科学の本質や科学者の態度とは関係なく、単に科学者に代価を支払い依頼したという意味で用いられる場合もある。ウォン・ヒリョン国土交通部長官が、ソウル-楊坪(ヤンピョン)間の高速道路の路線変更に関する論議は「専門家の科学的意見と、当事者である住民らの意思」を通じてまとめられると述べた際(「月刊朝鮮」インタビュー)、この「科学的」には、分析の方法や科学者の所信に対する関心は含まれていない。ウォン長官は、関連のYouTube動画でも同じような観点で語った。「妥当性調査を請け負ったこの専門科学技術者たちが、路線を検討する過程で現在問題となっている代案が出てくることになったのです」。ここでの科学技術は、政治家や官僚の責任を減らし、手軽に受け取って使えるサービスだ。
おそらく「科学的」とは、世界を探求する方法、その過程で得るデータ、それを遂行する態度、科学者に任せたこと、これらすべてを指し示す言葉だろう。科学者どうしが実験結果を討論する場合、教師が学生に科学の基礎を教える場合、政治家が国民に政策を説明する場合に使う「科学的」の意味は、それぞれ違わざるをえず、それでも問題ない。「科学的」という言葉を、各領域で私たちが判断して行動する際に目指す価値を総称するものとして受け入れるのであれば、混乱の余地はあまりない。
しかし現在、「科学的」という言葉は、公論の場でともに積み上げなければならない価値ではなく、互いに奪い取ったり奪われる対象になってしまった。自分が賛成することには「科学的」という腕章を巻き、反対することには「非科学的」や「怪談」というレッテルを貼る。論争を避けたり相手を倒すために「科学的」という言葉を武器のように振り回せば、「科学的」の様々な意味は交錯して衝突する。「科学的」が合意の動力ではなく対立の兆候になれば、科学は社会的意思の決定のための制度としての権威を失う。それは科学にとっても社会にとってもよくないことだ。
チョン・チヒョン|KAIST科学技術政策大学院教授・科学雑誌「エピ」編集主幹 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )