わずか1日で終わったロシアの民間軍事会社「ワグネル」の武装反乱は、ウラジーミル・プーチンにとっては悪夢だったが、彼を嫌う人々にとっては「喜ばしい」ニュースだった。もちろん、ワグネルはまったく喜ばしくはない集団だ。2014年のクリミア侵攻をはじめ、シリアやモザンビーク、リビア、マリなどの様々な内戦に参加し、民間人虐殺や拷問など「汚いこと」で悪名を駆せた。だが、ワグネルの「名前」の元所有者は、そうしたこととは無関係の人物だ。むしろその反対だ。「ワグネル」は、私たちがよく知っているドイツ出身の世界的な音楽家リヒャルト・ワーグナから来ている。
西洋音楽史においてワーグナーは、バッハとベートーベンに次ぐ影響力を持つ音楽家とされている。ワーグナーは、20年かけて完成した4部作『ニーベルングの指環』をはじめ、『トリスタンとイゾルデ』『ニュルンベルクのマイスタージンガー』『ローエングリン』『タンホイザー』のような輝かしい作品によって、音楽史に名を残した。ワーグナーは伝統的なオペラを革新し、音楽と演劇が緊密に結びついた「楽劇」として再誕生させた。特に1859年に作曲した『トリスタンとイゾルデ』では、それまで聞かれなかった半音階の不協和音を活用した型破りな旋律を披露し、現代音楽の扉を開いたという評価を得ている。ワーグナーの作品は、西洋音楽史において革命的なものとして受けいれられ、当時の芸術はもちろん、哲学や文学などにも大きな影響を及ぼした。グスタフ・マーラーやアルノルト・シェーンベルクなどの音楽家だけでなく、ショーペンハウアーやニーチェ、トーマス・マンらも彼の影響を受けた。
だが、ワーグナーがヒトラーにまで影響を及ぼしたことは、彼にとっては不幸だった。ヒトラーは、ワーグナーをゲルマン民族の優秀性を象徴する人物として崇拝した。実際に民族主義指向が強かったワーグナーは、ナチスの宣伝道具として申し分なかった。ワーグナーがヒトラーの尊敬を受ける音楽家だったという事実は、第2次世界大戦後、彼を政治的論争の場に引きずり込み、ネオナチのような極右勢力にインスピレーションを与えた芸術家という不名誉をもたらしたりもした。
エフゲニー・プリゴジンとともにワグネルを作ったロシア軍部出身のドミトリー・ウトキンも、ワーグナーの熱烈な崇拝者だ。ウトキンはネオナチでありプーチンの側近でもある。ワグネルの名前は、彼が主導したといわれる。民間人を相手に人権侵害を日常的に行う民間軍事会社が、芸術家の名前で「汚いこと」を洗浄したかったのだろうか。芸術は芸術であるときだけ美しいにすぎない。芸術家の名前で人類に対する犯罪まで洗浄できない。