先月29日、梨泰院(イテウォン)のハロウィーン「フェスティバル」は158人の若者が圧死する「惨事」となった。台風に襲われたり、橋が崩れ落ちたりしたわけではない。ソウルのど真ん中の路上で人々が集まったことで倒れ、下敷きになったため息ができなくなったのだ。
国民の安全に責任を負う行政安全部長官は「警察や消防人員をあらかじめ配置することで解決できた問題ではなかった」と述べた。13万人が集まった梨泰院に配置された警察官はわずか137人で、しかもほとんどは麻薬取り締まりなどに焦点が当てられていたという批判に対する対応だ。国民は言葉を失った。
長官の発言に非難が集中すると、その他の人たちも対処に追われた。警察庁の関係者は「主催者のいない、人が大規模に集まる行事についてのマニュアルはない」と述べ、龍山(ヨンサン)区長は「祭りであれば行事の内容があり主催者がいるが、内容もなく、単にハロウィーンに集まる一種の現象」だと語り、首相は「主催者がいなければ警察は統制権が持てない」とバトンを受け取った。
警察庁が公開した112番通報の内容を見ると、当日午後6時34分に圧死という単語の用いられた最初の通報があった。「とても不安だ。人が下りられずにいるのにどんどん上に押し寄せてくるから圧死しそうだ。規制してもらわなければ」というものだった。その後も70件あまりの通報があったという。
なぜ担当公務員たちは、できることはないと判断したのだろうか。これについては、達成すべき目標は定めるものの、その方法は自律に任せる「目標基盤規制」と、方法を具体的に一つひとつ決める「指示的規制」を比較することに意味がある。
第1に指示的規制は、担当者は危険を積極的に探り出してそれを規制しようと努めることよりも、与えられた規定や指示に依存し、規制を避ける工夫の方を優先する。「この日、梨泰院では10万人を超える人出が容易に予見できるため、地方自治体と警察は人出規制、道路規制などを行うべきであり、むしろ主催者がいない時ほど行政と警察力の介入が必要だ」という主張は常識に合っている。現場にいる一般市民なら簡単に判断できる問題を、警察はむしろ見ることができなかったか、あるいは努めて無視した。
第2に、守るべき事項を具体的にいちいち決めるというのが指示的規制の特性だが、いくら細かく規定しても死角地帯は存在せざるを得ない。マニュアルに主催者がいない行事を含めればひとまず解決するだろうが、状況が変わればまた別の隙間が生じる。
第3に、「指示」に依存するシステムでは報告体系が歪曲されるほか、緊迫した状況に対する対処が遅れる。今回の場合、大統領が惨事から46分後に最初に報告を受け、行政安全部長官が1時間5分後に、警察庁長官は1時間59分後にようやく報告を受けた。報告の順番が逆だ。現場で最高権力者の指示を待っていたら、措置はそれだけ遅くなるだろう。
囲碁では、定石は覚えて忘れろと言う。一定水準までは定石は役に立つが、上級者になればなるほど定石にしがみついていたら勝算はなくなる。状況の変化と相手の戦術に「適切かつ十分に」対応するのに限界が生じるからだ。
複雑な規制と指揮体系が効率的な時代ではない。上級者になるために水平的な組織文化と創意的な思考が求められる場所は、生産現場だけではない。誤ったマニュアルは正さねばならない。さらに重要なのは、状況に応じて迅速な判断と対応が行われるよう、規制に自律責任を加えることだ。
イム・ヨンソプ|財団法人ピープル未来職場研究院長 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )